2012年1月29日日曜日

サステイナブル・コミュニティとアワニー原則

1.町づくりの理想


カルフォルニア州デービス市
 「町づくり」という言葉の持つ内容は非常に大きく多岐にわたる。生活の質の向上であったり、文化づくりであったりする。他にもいろんな内容の「町づくり」があると思われるが、ここでは生活の場づくりとしての「町づくり」を考えている。この「町」という概念を高めていくとサスティナブル・コミュニティーにたどり着くと思う。

 聞き慣れない「サスティナブル・コミュニティー」と言う言葉は、86年にアメリカの建築家ピーター・カルソープが初めて使った言葉で、「半永久的に持続可能なコミュニティー」と言う意味である。この半永久的に持続可能というところに特徴がある。自然環境をできるだけ損なわず、エネルギーを浪費せず、資源をリサイクルすることを考え、そこに住む人々が人間性豊かな生活が実現できる町。更に、現代技術を生かすだけではなく、伝統に根ざしたローカル技術も取り入れ、生活に必要な物が身近で揃えられ、車を使わなくても用が足せるようにコンパクトにデザインされている。何よりもそこの住人が、その町に住んでいることを誇りに思える、そんな町である。


 サスティナブル・コミュニティーは設計者の意図によって幾つかのタイプがある。エコロジー面を強調した田園都市型、他地域との連携を意識した交通体系重視型、ニューアーバニズムタイプ、そして強いコミュニティづくりのためのアイデンティティに重点をおいたもの等がある。このほかにも規模により、都市との位置関係により、住む人により、連帯感の強弱により、いろんなタイプのサスティナブル・コミュニティーがあると思う。
 
 自然との共生や人間性の涵養は、日本にとっても世界にとっても重要課題である。「家は人間をつくる場所である」ということはよく考えればあたりまえのことだが、今までないがしろにされてきたことである。最近の少年たちの何とも痛ましく恐ろしい犯罪は、コミュニティーの欠如による犯罪と言えるのではないだろうか。被害者同様、犯行を犯した少年たちもある意味では被害者であると言えるのではないだろうか。

 もしサスティナブル・コミュニティーがつくれたならば、快適で健康的な生活が営まれ、子供たちものびのびと育ち、そこに建てられた家々は自然環境と調和し、よく管理され、何よりも大切にされ、結果として80年、100年経っても資産価値を失わないことになるだろう。その結果、物心両面にわたり本当に豊かな生活が実現するはずである。
 一般の住宅でも、北米では80年、100年も経った家が実際に売買されている。そして、家が長持ちする環境にあり、大事にされているが故に、家に対する支出が日本より遙かに安くすんでいるのは事実である。他にも要因はあると思うが、その差が彼らの生活のレベルを高くしているのは間違いない。サスティナブル・コミュニティーは更に高い付加価値を家とコミュニティーに付ける訳だから、より高い資産価値と、より豊かな家庭生活と人生を実現させてくれるに違いない。

「ヴィレッジ・ホームズ」のコミュニティ内の
パス(小径)にて(1999年に当NPOが視察)

2.アワニー原則

サスティナブル・コミュニティーの「サスティナビリティー」の定義は、「千年後でもこの地球の上で生きていけるような町づくりをし、千年後でもこの地球で生きていけるような生活をする」というものである。更に「物質文明が進展する中で民主主義の礎であるコミュニティーが失われつつあるという反省にたって、そして将来に立ちはだかる資源の有限性や地球環境の維持という壁に気が付いて、新しい町づくりをはじめなければならない」ということである。

1991年の秋、カルフォルニア州にあるヨセミテ国立公園のホテル・アワニーに地方自治体の幹部が集まり、その会議で発表されたのが「アワニー原則」である。この原則を起草したのが、ピーター・カルソープ、マイケル・コルベットを含む志の高い新進気鋭の建築家6名であった。彼らは80年前後から、自分たちの考えに基づいて新しい町を建設し、高い評価を受けるとともに、開発事業としても成功を収めていた。彼らの成功を見て、模倣した町が各地に造られるようになったが、彼らの目的や意図とは異なる不完全なコミュニティーが次々と出現した。この状況を見た彼らは、自分たちの意図する町づくりの全体像を明確にする必要性を痛感し、6人連名で町づくりにおいて遵守すべき諸原則をとりまとめた。これがアワニー原則である。

 アワニー原則は、①序言、②コミュニティーの原則、③コミュニティーを包含するリージョンの原則、④実現のための戦略、という4つの部分から構成されている。

1.序言(Preamble)
 
現在の都市及び郊外の開発パターンは、人々の生活の質に対して重 大な障害をもたらしている。従来の開発パターンは、以下のような現象をもたらしている。 
            自動車への過度の依存によってもたらされる交通混雑と大気汚染 
            誰もが利用できる貴重なオープンスペースの喪失 
            延びきった道路網に対する多額の補修費の投入 
            経済資源の不平等な配分 
            コミュニティーに対する一体感の喪失 
  過去及び現在の最良の事例に依拠することによって、そのコミュニティーの中で生活し、働く人々のニーズにより明確に対応するようなコミュニティーをつくりだすことが可能である。そのようなコミュニティーをつくりだすためには、計画書策定の段階で以下のような原則を遵守することが必要である。 

2.コミュニティーの原則(Community principles)
  
  すべてのコミュニティーは、住宅、商店、勤務先、学校、公園、公共施設など、住民の生活に不可欠なさまざまな施・活動拠点を合わせ持つような多機能で、統一感のあるものとして設計されなければならない。できるだけ多くの施設が、相互に気軽に歩いて行ける範囲内に位置するように設計しなければならない。 
  できるだけ多くの施設や活動拠点が、公共交通機関の駅・停留所に簡単に歩いて行ける距離内に整備されるべきである。 
  様々な経済レベルの人々や、様々な年齢の人々が、同じ一つのコミュニティー内に住むことができるように、コミュニティー内では様々なタイプの住宅が供給されるべきである。 
  新たにつくりだされるコミュニティーの場所や性格は、そのコミュニティーを包含する、より大きな交通ネットワークと調和のとれたものでなければならない。 
  コミュニティーは、商業活動、市民サービス、文化活動、レクリエーション活動などが集中的になされる中心地を保持しなければならない。 
  コミュニティーは、広場、緑地帯、公園などの用途の特定化された、誰もが利用できる、かなりの面積のオープンスペースを保持しなければならない。場所とデザインに工夫を凝らすことによって、オープンスペースの利用は促進される。 
  パブリックスペースは、日夜いつでも人々が興味を持って行きたがるような場所となるように設計されるべきである。 
  それぞれのコミュニティーや、いくつかのコミュニティーがまとまったより大きな地域は、農業のグリーンベルト、野生生物の生息環境などによって明確な境界を保持しなければならない。またこの境界は、開発行為の対象とならないようにしなければならない。 
  通り、歩行者用通路、自転車用自動車道路などのコミュニティー内の様々な道路は、全体として、相互に気密なネットワークを保持し、かつ興味をそそられるようなルートを提供するような道路システムを形成する物でなければならない。それらの道は、建物、木々街灯など周囲の環境に工夫を凝らし、また、自動車利用を減退させるような小さく細かいものであることによって、徒歩や、自転車の利用が促進されるようなものでなければならない。 
「ヴィレッジ・ホームズ」のコミュニティ内の
パス(小径)にて(1999年に当NPOが視察)
  コミュニティーの建設前から敷地内に存在していた、天然の地形、排水、植生などは、コミュニティー内のグリーンベルトの中をはじめとして、可能な限り元の自然のままの形でコミュニティー内に保存されるべきである。 
  すべてのコミュニティーは、資源を節約し、廃棄物が最小限になるように設計されるべきである。  自然の排水利用、干ばつに強い地勢の造形、水のリサイクリングの実施などを通して、すべてのコミュニティーは水の効果的な利用を追求しなければならない。 
  エネルギー節約型のコミュニティーをつくりだすために、通りの方向性、建物の配置、日陰の活用などに充分な工夫を凝らすべきである。 

3.コミュニティーを包含するリージョンの原則Regional principles)
  
  地域の土地利用計画は、従来は自動車専用の高速道路との統合性が第一に考えられてきたがこれからは、公共交通路線を中心とする大規模な交通輸送ネットワークとの統合性がまず第一に考えられなければならない。 
  地域は、自然条件によって決定されるグリーンベルトや野生生息の生息境界などの形で、他の地域との境界線を保持し、かつこの境界線を常に維持していかなければならない。 
  市庁舎やスタジアム、博物館などのような地域の中心的施設は、都市の中心部に位置していなければならない。 
  その地域の歴史、文化、気候に対応し、その地域の独自性が表現され、またそれが強化されるような建設方法および資材を使用するべきである。 

4.実現のための戦略(Implementation strategy) 


  
全体計画は、前述の諸原則に従い、状況の変化に対応して常に柔軟に改訂されるべき物である。 
  特定の開発業者が主導権を握ったり、地域のそれぞれの部分部分が地域全体との統合性もないままに乱開発されることを防ぐために、地元の地方公共団体は、開発の全計画が策定される際の適正な計画策定プロセスの保持に責任を負うべきである。全体計画では、新規の開発、人口の流入、土地再開発などが許容される場所が明確に示されなければならない。 
  開発事業が実施される前に、上記諸原則に基づいた詳細な計画が策定されていなければならない。詳細な計画が策定されることによって、事業が順調に進歩していくことが可能となる。 
  計画の策定プロセスには誰でも参加できるようにするとともに、計画策定への参加者に対しては、プロジェクトに対する様々な提案が視覚的に理解できるような資料が提供されるべきである。

文責:安江高亮
<参考図書>
 川村健一著「サステイナブル・コミュニティ」

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2012年1月28日土曜日

新しい国づくりの考え方「公と私」


古代ロ-マと21世紀日本のインフラ・・「不毛の対立まねく『官と民』の考え方」
日本経済新聞2002.1118 16面「特別企画」より

作家 塩野七生氏(イタリア在住)の言葉


私はこの本(「ローマ人の物語Ⅹすべての道はローマに通ず」新潮社)のなかで、古代ロ-マのもっていた「公」と「私」という概念を訴えたかったんですね。それを日本の人はどう読むのかというと、「官」と「民」に置き換えていると知って、正直のところがく然としました。
ナポレオンが造ったパリの街
拡大して真ん中のロータリーを見て下さい
 「パブリック」と「プライベ-ト」の違いを私はいっているんですよ。ところが日本では、「官」と「民」なんです。これは日本のためによくない。なぜなら、「官」と「民」に分けると対立関係になってしまう。対立関係とは、一方が勝ち一方が敗れないと解決しない関係です。

また、「政」はどこに入ってくるのか。今まで「政」は「官」とくっついていたわけです。ところが「政」が今度は「民」とくっつきはじめて、共同で「官」と対立している感じ。これは実に不毛です。

ところが古代ロ-マ人は、この種の対立関係をひどく嫌っていたんですね。ただし、ロ-マでも共和制時代の中期には、平民と貴族という対立関係があったんです。その時期、平民側はこういう要求を送るんです。「執政官は二人だからそのうちの一人をわれわれによこせ」と。貴族側が一人、平民側が一人というと二大利益代表制の構造になるんです。それで、当時の先進国であったペリクレスのアテネに視察に行くんです。ところが視察から帰ってきてもアテネ式の二大政党制は採用しなかった。どうしたかというと、平民側の代表である護民官を務めたら自動的に元老院に入る、というやり方にしたのです。

 ちょうど、会社の経営側と労働組合の関係のようなもので、労働組合の委員長を務めてから取締役会議に入って、もしかしたら社長になるというのと似ている。これだと、対立関係にならないんですよ。これでロ-マ社会は安定してくるんですね。大体、普通の国家は二大政党制なっていますから、現代でロ-マと同じやり方をしている組織はどこかといえば、ロ-マの法王庁ですね。バチカンの長命の秘密はここにあるんです。これは現代の政治で二大政党制がいい、と思い込んでいる人にとっては衝撃的じゃないでしょうか。


新しい国づくりの考え方「公と私」

歴史上で長い命を保った共同体、つまり、レスプブリカ(国家)とは、他に比べて優れた資質を持っていた国家ではないんです。持っている資質の活用を知っていた国家のほうなんです。資質を活用する術(すべ)を知らなかった共同体はだいたいが短命に終わっているんですね。
 話を日本にもどせば戦後の五十年、意外と、日本人は自分たちの資質を活用するシステムをつくりあげたわけですね。それが今、うまくいかないわけでしょう。新たなシステムを作る必要に迫られているのが今の日本ならば、「官と民」を続けていたんでは絶対にダメだと思う。ならば本来の姿にもどって、「公と私」にしよう。そして公と私を分ければ、官のなかでも分かれるわけです。この仕事は「公」、あの仕事は「私」、そして民のほうも私企業とはいえ、必ずしも「私」ばっかりではない。

ロ-マ街道を例にとれば、ロ-マ人は幹線道路建設を、政治であると思ったからやったんです。つまり、「公」であると信じて疑わなかったから、国費を投入し短期の採算なんか無視して強行したのです。ただし、地方自治体にとっての有益な道は別扱いでしたが。幹線道路とそうでない公道、それから地方自治体の道と私道、これらを意味するラテン語があったということは、彼らが道路を役割別に考えていたということなんですよね。

(参考)建築家 團紀彦氏談:官庁の仕事であれ,個人の仕事であれ,街並みをいうことになれば,「官」であれ「民」であれ「公のスペース」に関与する。

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このNPOの基本理念



「まちづくり」こそ最重要課題ver.5
写真は厚木宿/1860年頃撮影
【目次】
1何故か
2コミュニティの大切さ
3「コミュニティ」という
 言葉
4「公」という考えが必要
5「公」の解釈
6車社会がコミュニティを
 破壊
7結び
1 何故か

まちづくり,街づくり,町づくり,と言葉はいろいろ。今,これらの言葉の意味をしっかり考えなければならない時期にきたと思います。敗戦後半世紀間,都市部から農村まで国中を良くするために,インフラ整備に大変なお金をつぎ込んできました。しかし,その結果として今の地域社会を心豊かコミュニティだと評価できるでしょうか。

母親の赤ちゃん・幼児虐待,小・中・高校生の登校拒否やいじめ,そして悲惨な殺人事件,暴走族,オーム真理教,事業家の企業倫理の欠如,高級官僚の腐敗,党利党略に明け暮れる政治家の無責任,等々,異常事態は枚挙にいとまがありません。特に注目すべきは,地域社会の中でしか暮らしていない子供達の生活の実体です。しかも,世界一の貯金と債権を持った日本,大変な経済的繁栄と物質的豊かさの中でこれらの事件が起こっていることに注目するべきだと思います。

よく考えれば,経済・政治・文化等々全ての人間活動の帰結するところは,ひとり一人の幸せの実現です。その実現を一番底辺で支えているのが生活の土壌である地域社会(コミュニティ)です。このコミュニティの質こそがその地域の価値を決め,そこで育ち旅立って行く子供たちの将来も決めるのだと思います。そして国家の価値も。

2 コミュニティの大切さ

わたしたちは,「地域」の中,「町」の中,「まち」の中,「コミュニティ」の中でしか生きられません。子孫の存続を考えなければ,ロビンソン・クルーソーのように,どこでも一人でも,生きられるかも知れないが,人間らしい生活や生命の継承を考えれば一人では生きられません。

「親はなくても子は育つ」と言うのは本当かもしれない。変な親ならいない方がいいだろう。しかし,「コミュニティ」がなければ,子は育たない。 「親はなくても子は育つ」というのはコミュニティの存在を前提とした言葉であろう。社会生活をする人間にとって,コミュニティは絶対不可欠です。人間は「社会的動物」であり,コミュニティがなければまともな人間に成長することはできません。

「コミュニティ」は人間を育てる土壌です。土壌が良好に維持管理されていれば,そこには姿形も栄養も豊かなすばらしい野菜が育ちます。同様に,心の豊かさを育むようなハードを備えたコミュニティには,必ずや立派な人間が育ちます。世界にはそういう実例がたくさんあります。 
その逆は,結果も逆になります。だから,人間を育てる土壌であるコミュニティほど,大事なものはない筈です。しかし、残念ながら,我々は良好なコミュニティの形成について,真剣に研究し考えてきたとは言い難いのではないでしょうか。
3 「コミュニティ」という言葉

わたしは敢えて横文字は使いたくないが,「コミュニティ」のいい日本語訳がない。「住環境」,「集落」,「部落」,「地域社会」,等々訳語が考えられるが,いずれもしっくりときません。「部落」も「集落」も家の集合体を表しているだけのような気がするし,「住環境」という言葉は範囲が狭く感じる。「地域社会」という言葉は,範囲が広すぎるように思えます。
「コミュニティ」という言葉には,人と人の心の繋がり,つまりソフトウェアが含まれています。単なる家の集合体ではありません。

日本語には,ハードである物や構造物と,ソフトである心の持ち方や運用法方を合体した言葉が少ないような気がします。だから日本語に訳せない横文字が多い。わたしは敢えて「コミュニティ」を訳してみると,「連帯感のある集落」となりました。しかし,面倒くさいので「コミュニティ」をそのまま使うことにしました。

念のためブリタニカを引いてみると,「コミュニティ」では出ていなくて,「地域社会」の訳として「コミュニティ」と出てきます。そしてその後段で「コミュニティの概念とその意味」という子見出しで,次のように書いてあります。

「コミュニティという言葉は,実体的な地域社会を意味すると同時に,共同性をその一つの特質としているだけに,もともと人々の間の望ましい結びつきを意味する場合もあったが,1970年代以降の日本では,独特の価値的な含みをもった言葉として用いられるようになってきた。
 コミュニティという概念は,現実に存在する地域社会よりも,むしろ理念的なものとして,市民としての自主性と責任とを自覚した住民が,生活する地域に対する帰属意識を持ち,共通の目標を目指した共同活動をとろうとする態度を意味するものとして用いられた」。
更に,「地方自治体の役割が大きくなる中で,住民自治の単位を築いていくためにも,コミュニティには大きな期待が寄せられる」とあり,結局,「地域社会」とは意味合いが違うようです。

4 「公」という考えが必要

我々は戦後一貫して,図らずもコミュニティを破壊し続けてきたと言えます。幾つかの原因があると思いますが,一番大きな理由は,全体主義による悲惨な敗戦の結果,それに大きく助力した村社会にたいする無意識の反発があったと思います。村社会の締め付けの反動として,地域社会から束縛されることを嫌悪し,自分の権利と自由を強く押し出した結果,社会形成には不可欠な「公」(パブリック。官ではない)という概念が欠落してしまったと思います。

その一つの現れとして,土地と家は公的な存在物であるという価値観を捨ててしまったことが挙げられます。その結果,「自分の土地と家」は100%自分の所有物であり,一歩自分の土地に入ったなら「他人にとやかく言われる筋合いはない」というエゴイズム丸出しの価値観が生まれてしまいました。

土地は造った人がいないのだから,本来誰の物でもない筈です。たまたま何かの縁で使う権利を持っているだけで,たどり辿って行けば,侵略したかそれとも何らかの権力により所有したか,或いは与えられたか,どれかの筈です。だから,たまたま一定の代価を払ったことによって自分が使わせてもらっているだけ,と考えるのが妥当だと思います。それを所有権といったり,借地権といったりしているだけで,経済価値の計算の仕方の違いだけで名称が違うだけのことです。

家は,人間が個人で造る物としては最も大きく高価な構造物であり,その存在は景観を変え,街の雰囲気を変え,嫌でも大衆の目に触れる巨大物体です。これらが100%自分の所有物であると考えるのは,社会性を失った価値観だと言わざるを得ません。
家のインテリアは,他人目には触れないので100%自分のものと言っても良いかも知れませんが,外観は嫌でも他人の目に影響を与え,街の景観を大きく左右する訳ですから,公からの制約があっても当然です。つまり外観はパブリックなのです。
5 「公」の解釈

コミュニティには「公」の考えが不可欠です。このことは,寺島実郎氏(元三井物産戦略研究所長)も「正義の経済学」の中で指摘しています。小渕首相が,亡くなる前の所信表明演説で「公」の概念を強調したのは,余りにも遅すぎました。「公」という概念は,「官」と「私」をつなぐインターフェイスであり,社会の生成発展には不可欠な潤滑油のようなものではないでしょうか。わたしの解釈では,家に喩えるなら,インテリアは「私」だが,大衆のめに晒される外見は「公」ということになります。また公園は「官」の所有かも知れませんが,使い方は「公」だと思います。

コミュニティは,個と全体のホロニック(自立した個と全体が有機的に結びついている)な世界です。言い換えれば,家や緑地や公園や畑などを含む「まち」のハードウェアと,ソフトウェアである人々の日々の暮らしや想いとの調和の世界だと思います。家や土地が「100%自分の物」という価値観の中には,周辺との調和という概念は入り得ません。だからコミュニティは崩壊したのであり,残念ながら日本に美しい街並みやコミュニティは非常に少ないのです。

官・民と,公・私について作家の塩野七生さんが,2002年に日経(国交省の広告)に書いた記事「新しい国づくりの考え方「公と私」」がすばらしいと思うので,リンクしておきます。

写真は小田原宿/1860年撮影
昔は「いいまち」だったとよく田舎では話されます。私は中山道の芦田宿で育ちました。私が小学校に入学する前,確かに今思い出しても,人々の心が通い会うコミュニティがあったと思います。それを可能にさせていたハードウェアがあったからです。

まだ舗装もされていない芦田宿の通りには,両側に石垣の水路があり,各家の前には洗い場があり,きれいな豊富な水が流れていて,人々は朝から晩まで,水の用はほとんどそこで足していました。西側の水路は幅が広く、水草が生えていました。

井戸のある家はお医者さんとか,本陣とか,商売屋くらいで,ほとんどの人は共同の和泉に汲みに行くか,井戸のある家にもらい水をして生活をしていました。従って,朝から晩まで,人々はお互いに挨拶を交わし,井戸端会議をしながら生活をしていました。通りに車はほとんどなく,そこは子どもの遊び場であり,年寄りのくつろぎの場であり,買い物に来る人々との交流の場でした。まさしくそこにはコミュニティが存在しました。街道そのものがコミュニティの中心的ハードウェアでした。

6 車社会がコミュニティを破壊

しかし,その後どうなったかはご承知の通り,車の利便性と引き替えに,コミュニティの中心的ハードウェアであった道を車に引き渡してしまいました。水路はコンクリートで蓋をされ,路面は舗装され,車に占領されてしまった。車の利便性に気を取られて,コミュニティが崩壊していくのが見えなかったのではないでしょうか。

あるソフトが機能するためには,それが機能するためのハードウェアが当然必要です。人々が触れ合い交流するためには,その場が必要です。どうしてもそれを潰さなければならない時は,その代替えを考えなければならなかった訳ですが,そのことに気が付かなかった。気さえつけば,想いさえあれば,世界一の貯金額(1400兆円)の10%か20%を使えばできた筈です。日本中でコミュニティが崩壊してしまったのはこのような理由が大きいと思います。
7 結び

今問題なのは、コミュニティの衰退により地域社会が生命力を減退させ、基本的に全うに生きる力のない「おかしな人間」が増えていることです。すぐ切れてしまう,すぐダウンしてしまう,すぐ死んでしまう,簡単に人を殺す,そんなのが多すぎます。

日本中に「ふれあい……」と冠のついた建物や広場が盛んに作られるのは,日本中にふれあいが無くなってしまったことを証明しています。問題なのは,空き地に集会所を造ったり,町のはずれに公園を作ったりすれば解決すると思っていることです。
田舎の公園が町外れの寂しいところに造られていることが多いですが,一体誰がそこで遊びくつろぐのでしょう。公園はその街の人々が朝に夕にくつろげる様に、街の真ん中になければなりません。街の真ん中に造るにはきっと大きな困難が伴うでしょう。しかし,そこを何とかしていくのが政治であり,住民の努力ではないでしょうか。

コミュニティは人間を育てる土壌です。有機栽培,有機畜産という言葉が流行っていますが,有機社会を創りましょう。社会ルネッサンスを起こしましょう。

今日本は混迷の極みにあります。しかし,新しいうねりが起き始めています。今こそ,「コミュニティとは何か」,「誰がどうするのか」を真剣に考え,行動する時がきたと思います。
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NPO法人信州まちづくり研究会設立に当って 理事 安江高亮 初稿:20012
最終更新日:20121
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2012年1月24日火曜日

加瀬英明 納得の国体論紹介

「天皇のない日本」は日本ではない

先日、「柏朋会」という、寛仁親王殿下が主宰されている身障者の福祉団体のお招きを受けたので参りましたら、突然挨拶をするようにと言われ、そこで私はこういう話をしました。

――3カ月前、ちょうど野田内閣が発足した後にパーティーが催され、そこで以前から親しくしている中国の高官とばったり会いました。そこで、「日本では5年間で6人も首相が交代しました」と言ったら、この高官が「お国は人材が豊富ですから」と言って皮肉られました。

しかし、5年間に6人の首相が交代しても、日本国民は不安にかられて狼狽しているようなところが見受けられません。本来であれば、朝食も喉に通らないような不安を抱くはずなのに、落ち着いているわけです。

これはやはりご皇室があるためで、ご皇室の存在がいかに大切かということは、今回の東日本大震災もそうですし、こうした政治が不在の時でも日本は不思議なほど安定感を失っていない、というところに私は感じております。

本来ならば、私たちはご皇室にご心配をおかけしないように生きるのが務めであるのに、私は殿下をはじめご皇室の皆様にご心配をおかけしていることをお詫びしなければなりません――そのようなことを、そこで申し上げたのです。

「天皇のない日本」というのは日本ではありません。日本国民はもっと、お隣の中国、朝鮮半島の歴史を知るべきだと思います。わが国との一番大きな違いはどこにあるのでしょうか。中国では「易姓革命」と言って、この3000年の間に、40ぐらいの王朝――同時に10ぐらい並立していたこともありますから――が興っては滅びているわけです。

「易姓革命」とは何かと言いますと、中国の皇帝は「天子」と呼ばれますが、これは最高神である「天帝」の天命を受けて、一番徳のある者が天子の座に就くとされているわけです。そして、「徳を失った」ということになると、人民の間から徳を備えた新たな者が興って、前の王朝を倒し、新しい王朝を開く。しかし、この「徳を失った」、あるいは「徳を持っている」というのは、暴力革命の正当化に過ぎません。

一方、日本は125代にわたって、同じ天皇様を戴いています。そして、日本では「天皇が徳を独占している」ということはありません。ですから、大きな天災が起こると、その時々の天皇が国民に詫びる詔をしばしば出しておられます。

例えば、平安初期の平城天皇(第51代)は、大規模な水害が起こった時、「朕のまごころが天に通じず、天災を招いたことについて、その責任は朕一人にある」と詫びておられるわけです。その他でも、第45代の聖武天皇、あるいは第56代の清和天皇が、同じように自分が徳を欠いていたことを詫びる詔勅を出しておられます。

こういうことは、中国や朝鮮半島では考えられないことです。朝鮮半島はずっと中国の属国でしたから、歴代の王朝は「小中華」と言って、中国の完全なコピーであることを大変誇りにしていました。ですから、「日本マイナス天皇」という数式を考えてみますと、それは「イコール中国、朝鮮」になると私は思います。

日本文化のやさしさ――和の精神

日本文化の一番の「やさしさ」はどこにあるのかといいますと、やはり「和の精神」だと思います。私は英語の仕事をしていて、内閣の外交顧問として対米折衝のお手伝いをしたこともありますが、日本の「和」という言葉は外国語に翻訳できないのです。これは、中国語の「和」とも、英語の「harmony」とも全く違うものです。

日本の文化が非常に「やさしい」ということは、謙虚な文化だということです。その一番よい例が、7世紀に聖徳太子が公布された17条憲法です。第1条は「和を以て貴しとなす」から始まって、第10条が「自分だけが賢いと思ってはいけません、他の人にはそれぞれの考えと思いがあるものです」、それから第17条は「大切なことはみんなでよく相談して決めなさい。全員で合意したことは正しい」というものです。これは世界で最古の民主憲法です。

日本は神代の時代から、そういった和の精神があるわけです。私は比較神話と比較宗教の本を最近出しましたが、日本の神話は、韓国、中国、インドから、中東、ヨーロッパに至るまでのいずれの神話と比べても、これほどやさしい神話は存在しません。ギリシャ神話にしろ、ローマ神話にしろ、他の神話は非常に残虐、残酷なものです。

日本の神話には天照大御神(あまてらすおおみかみ)の話があります。高天原で大御神が一所懸命働いておられる稲田に、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が乱暴を働いて畔(あぜ)を壊した上、神殿に大便をまき散らしますが、大御神はお怒りにならず、「弟は酔っぱらっていたのだろう」と言ってお許しになります。

すると、須佐之男命は今度は大御神が重要なお祭りに備えて衣を織らせていた小屋の天井に穴を開けて、そこから馬の血だらけの死体を投げ込んでしまう。それを大神がお怒りになるのですが、弟を罰する代わりに、天の岩屋戸にお隠れになってしまうのです。

大御神は太陽神ですから、全世界が真っ暗になってしまいます。すると、八百万(やおよろず)の神々が天の岩屋戸の前に集まって、相談されるわけです。1番初めは、尾長鳥を連れてきて鳴かせますが、これは功を奏しない。次には、女の神様に、「乳房をあらわにして」と書かれていますが、滑稽な踊りをさせる。すると、八百万の神がどっと笑う。そこで、大御神が好奇心にかられて岩屋戸を少し開けて身を乗り出されたところを、力持ちの男の神様が引き出して、それで光が戻ったという話です。

これが外国の神話ですと、必ず最高神が全権を持っているわけです。ところが日本には、そういった全権を持った「万能の神」というのはおいでになりません。そして、天津神が日本列島に降りてくると、国津神と戦うことなく一緒になってしまいます。これもやさしいですね。

それから、神道は日本の最古の信仰ですが、「神道」という言葉はかなり新く、日本書紀に始まった言葉です。もともと名前がなかったのが、仏教が入ってくることによって、外来神に対して「神道」という名前が作られるわけです。ここでも、外来神がそれまで日本にあった神々を自分のものにしてしまうというようなことはなく、神仏が混淆(こんこう)して共存します。

キリスト教などは、ご承知のように今のイスラエルの地で生まれ、その後、地中海からヨーロッパに伝わって世界的な宗教になります。しかし、その過程で、キリスト教はヨーロッパにあった多神教を吸収し、多神教は消滅してしまうのです。クリスマスももともとは多神教の習慣で、キリスト教のものではありません。

日本には「宗教」という言葉は、明治に入るまでありませんでした。それ以前に「宗門」「宗派」「宗旨」という言葉はありましたが、自分の信仰だけが絶対的に正しくて、他の信仰を全て否定し、排斥するという考え方は、日本人にはなかった。明治に入って、「religion」の訳語として、「宗教」という新しい言葉を作ったわけです。

あるいは、「nature」を指す「自然」という言葉も江戸時代には存在せず、明治に入ってから訳語として作られました。確かにそれ以前も、仏教用語として「じねん」と読ませることはありましたが、これは全く違う意味です。それまでは、人間も自然もこの宇宙の中の1つの存在でしかなく、分け隔てがなかったのです。

しかし、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教――これは同じ神を拝む3部作の宗教ですが、ユダヤ教の聖書であり、キリスト教では旧約聖書と呼んでいる聖書のはじめに出てくる、神の人間に対する一番最初の命令は、「自然を支配し、思うがままに使うがよい」というものです。

日本にはそのように「人間」と「自然」が対立しているという考え方がないわけです。そして、「神」と「神」の間の対立もありません。これが「和」の精神で、日本以外にはないものです。

「祭り」と「お歌」

そして、日本の頂点にずっとおいでになった天皇も、謙虚なのです。今の陛下は125代目に当たられますが、この125人の中で、贅(ぜい)を極めた方というのは1人もおいでになりません。それから、恣(ほしいまま)に独裁を行った方もいらっしゃらない。そもそも、「独裁者」とか「指導者」という言葉も、明治以降に「dictator」「leader」という言葉が入ってきて、その訳語として作られたものです。

今、「中東の民主化」などと言われ、「民主化」という言葉が世界中を風靡(ふうび)していますが、日本は神代時代から民主主義があった国であり、その素晴らしい「和」の社会を束ねてこられたのが、天皇でいらっしゃるわけです。

日本は不思議なことに、超先進国になった今でも、「古代」が私たちの生活の中に生きています。例えば、宮中では、日本民族がまだ文字を持つ以前からの伝統である宮中祭祀が行われています。宮中祭祀の中でも一番重要なお祭りが「新嘗祭」です。

新嘗祭は、そこに天照大御神が降りてこられ、陛下が新穀をおすすめして、天照大御神とご一緒に新穀を召し上がられるという神聖な儀式で、その時に使われるお皿は柏の葉です。それから、箸は今の私たちが使っている2本棒の箸ではなくて、竹を火で炙ってピンセット状にした、箸の原型と言われるもので、毎年京都の石清水八幡宮で切り出された竹が宮中に献上されて、それで作っています。陛下が柏の葉に新穀を盛り付けられ、ピンセット状の竹の箸で大御神におすすめし、ご自分もご一緒にお食べになる、というのがこの儀式の一番中心にあるわけです。

あるいは、来年は伊勢の式年遷宮が行われます。式年遷宮は、20年ごとに全く同じご社殿を作って、御霊をお遷しする儀式ですが、これも世界に類例のないことです。古代ギリシャの神殿パンテオンや、ローマのコロシアムは今では遺跡になっていますが、伊勢神宮は遺跡ではありません。遷宮は、他にも熱田神宮などの大きな神社で多く行われています。

また、新聞の朝刊などに時々、和歌と俳句の投稿欄が載ります。そこに出てくる和歌の形式は、日本書紀に載っている一番初めに須佐之男命お詠みになったというお歌をはじめ百首余りの歌――当時はまだひらがながなく、漢字を表音文字として使っているのですが――の形式と全く変わらないのです。英文学にしろ、フランス文学にしろ、ドイツ文学にしろ、中国文学にしろ、古代詩と現代詩は全く形式が違うのですが、日本だけは同じなのです。中国、朝鮮半島では易姓革命が起こるたびに、その前の文化が否定されてきましたが、日本では、古代の文化が今日まで脈々と生き続けているのです。

それでは、天皇のお役目とは何でしょうか。それをなさらなかったら、天皇が天皇でなくなってしまうというものは何でしょうか。それは2つあると思います。1つは、宮中のお祭りをなさることと、もう1つは、お歌の伝統を継いでいかれることです。国会の開会式にご臨席になるとか、外国の元首を迎えて宮中晩餐会をなさるとか、閣僚を認証なさるなどというのは、今の制度の枠の中でのお仕事にすぎず、125代に渡って綿々として続けてこられたのは「祭り」と「お歌」です。

年が明けますと、宮中でお歌会始が行われます。テレビで1部を放映していますが、毎年御題が出されて国民から公募し、天皇をはじめ皇族の方々が入選者とご一緒に歌会をなさるものですが、そこでのお歌は2回繰り返して朗々と歌うように詠まれるわけです。これは、良い言葉を発すると世界の現実が言葉にそって良いものになるという言霊信仰からきていて、1つの祈りの形式なのです。ですから、日本を束ねているのは「祈り」の精神であり、日本文化の一番の根を支えておられるのがご皇室なのです。

「女性宮家」は「女系天皇」への入り口

昨年の終わりに、政府が突然「女性宮家の創設」ということを言い出しましたが、これは恐らく「女系天皇」への入り口となるもので、大変危険なことです。皇統はこれまで、125代にわたって男系で受け継がれてきました。これが女系に代わった場合には、天皇という、私たち日本国民にとって最大の無形の財産が壊されてしまいます。

私は、zェ仁親王殿下にこういうことを申し上げたことがあります。

「もし女系の天皇でよいということになったら、『歌舞伎に女優を出せ』というのと変わらなくなってしまいます。1つの伝統というものは、作り上げるのに最低でも1000年以上かかるでしょう。しかし壊すのは一瞬でできます。ですから、どんなことがあっても男系を繋いでいかなければ、天皇家が天皇家でなくなってしまいます」

そうしましたら、殿下も「その通りです」と仰られました。

私は小堀桂一郎先生などとご一緒に、この問題で2年間研究会を続けましたが、私たちの結論は、皇室典範を改めることなく臨時措置法を以て、占領下でアメリカが臣籍降下を強いた11宮家の中で、30歳以上くらいの男性――旧皇族のお孫さんにあたられますが――の中から相応しい方を3人か4人選んで、皇籍に戻っていただくことが一番良いというものです。

よく「60年も皇籍を離れていた人たちが宮様になったら、国民が馴染めない」などと言う人がいます。少々俗っぽい話になりますが、時々「ニセ皇族」というのが現れて何億円も詐欺を働くという事件が起こりますね。ニセ皇族でさえ国民はそれだけお金を渡すわけですから、本物が皇族として戻った場合に国民が馴染めないなどということは、絶対にないと思います。

また、イギリスの王室が「長子優先」を採用したと言われますが、ヨーロッパの王室と日本の皇室を比べることは全くできません。ヨーロッパの王室は、全部外国人です。今のイギリスの王室はもともとフランス人で、イギリス人ではないのです。そして、たびたびドイツの王家から血を引いてきています。例えば、ヴィクトリア女王の配偶殿下はドイツ人です。それで、次の代に王家の名前も「ハノーヴァー家」からドイツの王家の「サクス・コバーグ・ゴーサ家」に変えました。しかし、第1次大戦でドイツと戦争になった時に、ドイツの王家の名前では都合が悪いというので、ウィンザー城の名前をとって今の「ウィンザー家」になったわけです。ですから、日本の皇室とは成り立ちが全く違います。

今年は、もしかすると女系宮家創設へ向けて、事態が早く動くかもしれません。私たちとしてはあくまでも、今の各宮家の女王がそのまま宮家を創設される、あるいは宮家を継ぐのではなくて、旧皇族のお孫さんで相応しい方と結婚されることを前提として、女性宮家というよりも、旧皇族のお名前を宮家として復活させた方がよいと考えております。

今や、「日本国憲法は、占領下でアメリカが日本に強要したもので、現実にそぐわないものだから改正しなければならない」という声が国民の多数を占めるようになりました。それだったら同じように、11宮家の臣籍降下はアメリカが占領下で日本を弱体化するために強いたわけですから、どうしてこれを本来あるべき姿に近い状態に戻そうという声がもっと大きくならないのでしょうか。

小泉首相の有識者会議は、「女系天皇」ということを打ち出しましたが、これはアメリカの占領軍でさえ行わなかったことです。「女系宮家」というと一般の人には聞こえはいいですが、これは今問題になっているTPPなどよりも、はるかに大切な問題です。

民主党の中にも「男系を守らなければならない」という意見を持った人は多くいます。今年は危機感を持って、皆さんとご一緒に「女系天皇」に繋がる動きを阻止したいと思っております。
加瀬英明

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お問い合わせメール: info@kase-hideaki.co.jp
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2012年1月23日月曜日

バイオマス温室づくりの実験

安江理事の畑に作ったバイオマス温室の実験棟ができあがりました。考えながら,楽しみながらの作業でした。造りながら判ったことは,バイオマスというのは生きている,エネルギーを持っているということ。しかも,ウランみたいに危険性がない。これを使わない手はないと認識しました。

H23年12月22日に完成し,24日から外気と内部の最高・最低気温の観測を始めました。
その後の経過は,1月23日までの外気最低気温はマイナス12℃が3回,温室内の最低気温はプラス2℃です。
バイオマスの内部温度は,最高55℃まで上がり,現在は53℃です。

電気も石油も使わないでプラスに保てるのはすばらしいです。観葉植物を置いたり,ジャガイモを蒔いたりして観測を続けています。
1月4日に蒔いたジャガイモが21日に発芽しました。

バイオマスのパワーはスゴイです。
今後,もっと実用的な活用を考えます。

バイオマス温室づくりの記録は動画にしてYoutubeにアップロードしてあります。
バイオマス温室づくり・田舎暮らし便り288号(蓼科より).mov

下記メルマガ2011年12月25日,2012年01月08日に記事を掲載しています。
http://archive.mag2.com/0000200505/index.html

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2012年1月21日土曜日

農薬空中散布「効果写真」の不適切性

1月13日,ヤマンバの会事務局長の村山隆様から下記の報告書をいただきました。
驚くべきことが報告されていました。
私は民主主義の根幹を冒涜する行為だと感じました。
ここに,ご本人のご了解を頂きましたので転載致します。 
下記メルマガにも書かせてもらいました。
http://archive.mag2.com/0000200505/index.html    安江高亮

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共通確認した農薬空中散布「効果写真」の不適切性
~長野県検討部会最終報告書の点検活動より~

信州上田塩田平住民
里山保全「ヤマンバの会」 
事務局長 村山 隆


Ⅰ.里山の一本の老松枯死から誕生した「ヤマンバの会」

私たち「ヤマンバの会」(加藤千砂人会長)は、今から18年前に信州上田塩田平の下之郷東山の一角にある唐臼山山頂の一本の老松(愛称ヤマンバの木)枯死を看取る行事(「お別れ会」)を主催するために結成(1993430)された環境市民団体です。従って会誕生と松枯れは不可分であり、里山の「松枯れ問題」は会の中心的関心事でした。
会は現在まで、里山の老松をめぐる様々な実践を行って来ましたが、ここでは『長野県有人ヘリ松くい虫防除検討部会・最終報告書』(平成2311)の「空中散布効果写真」に限定して、点検・考察した最近の実践を中心に報告します。

Ⅱ.現地フィールドワークで把握した「空散効果写真」の欺瞞性

最終報告書の空散効果の説明資料として2枚の『比較カラー写真』が掲載されています。それは「岩井堂山」の北側(千曲市・空散実施区)と、南側(坂城町・空散中止区)との比較写真です。空散実施区(千曲市)は「松枯れは殆ど確認できない」と、空散中止区(坂城町)は「広い範囲で松枯れが確認できる」とキャプション付けされていました。この比較カラー写真は、県民に説明したビジュアルな公的資料であり、見事に空散効果を証明していました。

私は写真上では確かにそうであろうが、今迄の検討部会の“前科・前歴”を知っていましたので「自分の目で実際に見ないことには信用できない!」と思いました。最終部会傍聴時(20111125)に、千曲市「子ども達の明るい未来を守る会」事務局長の池田靖子さんにお尋ねしたら「山の裏表で樹種が違うので比較はおかしい?」と言うのです。早速、二人で岩井堂山の現地に赴き、苦労して「写真」と同じ場所を探し当てました。そして少し山中に分け入ったら、そこには“本質”が露呈していました。

1.師走の多忙の中、30名で「現地調査と検討会」開催
空中散布の賛否に関係なく、検討部会の県民向け説明資料が全てに亘って“正確”であることが極めて重要です。当然ですが、その上に立った論議が為されるべきです。
そこで私たち会は超多忙の師走でしたが、「子ども達の明るい未来を守る会」(茅原紘会長)と「子どもの未来と健康を守る会」(田口操会長)の2団体に呼びかけて『現地調査・検討会』を企画しました。何しろ降雪したら実施不可能ですので、少し無理を承知で計画しました。
地元紙の事前紹介後に数件の問い合わせがあり、関心の高さを感じました。私は「この企画は反対集会ではなくて、誰でもが自由に参加できる現地住民学習会です」と、位置付けを説明したら納得したようで数名が参加しました。
当日(昨年1211)午後は快晴に恵まれ、暖かい陽気で非常に助かりました。参加者は30名。多様な市民(県議2名、市議2名、元防除職員、健康被害者、環境保護住民他)が参加されて、3地点を実際に自分の目で見て“本質”を把握しました。

★第1地点:岩井堂山南側(坂城町・空散中止区/松枯れ多数)写真の現場
空中散布を3年間実施していないので「松枯れ多数」との県説明は、その通りに見えました。ここで加藤会長の方から自身が調査した坂城町森林整備課の内容を語りました。それは「去年と一昨年ともに250㎥行っていた伐倒駆除を、今年に限って県の指示で実施しなかった!」との衝撃的内容でした。参加者一同は驚きました。伐採してないので、多数の枯死が目立つのは当然です。皆はすかさず「では千曲市側はどうなのか?」と思いました。
続けて加藤会長は「千曲市上山田庁舎農林課によると、今年も岩井堂山地区では4月18日から6月末までに566㎥の伐倒燻蒸処理を実施しました。そして空散は6月20日と21日に行いました!」と説明。「これでは写真での比較自体がまやかしではないか?」など、参加者の胸に大きな疑問が膨らみました。

★第2地点:岩井堂山北側(千曲市空散区の庄内神社裏/新旧伐倒駆除多数)現場

次に岩井堂山の北側に並ぶ「横山」山中(庄内神社裏参道)に入りました。この参道は岩井堂山山頂まで続き、至る所にシートで覆われた伐倒燻蒸処理跡がありました。ガイド役の池田さんは「空散効果があったとする県写真の山中に、こんなに沢山の枯死松の伐採があるのです。新旧シートを見れば数年間に渡って伐倒したことが分かります!」と明快に述べました。皆は「これでは当然に千曲市側の写真が青々しているはずだ!」と思いました。これを空散効果だと説明しているのですから一同は驚いてしまいました。《百聞は一見にしかず》とはこの事、現場に立たねば絶対に解からない事実であり、報告書の読みだけでは決して判明しない事柄でした。

★第3地点:岩井堂山北側(千曲市・空散実施区/松枯れ無し)写真の現場
県写真と全く同じ場所に立って観察。真正面の青々とした山は、先ほど見学した山中でした。ここから広葉樹の落葉を透かして見ると、伐倒燻蒸処理のシートが何枚も見えました。県写真の撮影時(昨年626)には見えなかった伐倒跡が、今日はハッキリと見えたから皮肉です。坂城町側で加藤会長の“説明”を受けていたので、皆は千曲市側の青々とした写真のトリックが理解できました。《事実は小説よりも奇なり》ですが、種明かしを知れば何のその。参加者は、現場で『比較写真の欺瞞性』を実感しました。

2.学習した「効果写真」の不適切性と空散をめぐる体質問題
現地調査の終了後、上山田文化会館に戻って4時半過ぎまで、熱心な「検討・学習会」が持たれました。今日の現地調査で参加者の“到達した認識”は次の通りでした。
それは、≪県検討部会が最終報告書で示した空散「効果比較写真」は不適切です。何故ならば、今年に坂城町(空散中止区)は県指示で伐倒駆除を行わず、一方の千曲市(空散実施区)は伐倒駆除を実施したからです。もしも、坂城町が例年通りに伐倒駆除を実施したならば報告書の様な写真には決してなりません。また、千曲市側が伐倒駆除を未実施でも同様です。尚、農薬空中散布効果については、この写真では判断できないので、“別個の検証”が必要です!≫というものでした。

私の方からは現地調査の到達点を踏まえて、次の様な問題提起『松枯れ農薬空中散布をめぐる伝統的体質~空散の防除効果面からの考察』を行ない、今回の検討部会の効果写真に“前科”があることを解説しました。県検討部会『中間報告』(平成23年3月)に対する私のパブリックコメント(2011410)と、本会(加藤千砂人会長)が「こどもの未来と健康を考える会」(田口操会長)に呼びかけて共同提出した『公開質問状』(2011624)の中で、問題状況=【県が挙げた空散効果資料:「茨城県鉾田市玉田浜」(伐倒駆除を実施した写真)と「長崎県総合農林試験場データ」(伐倒駆除を併用したのに隠蔽した恣意的引用)】=を指摘して、その2資料の撤回を求めました。そうしたら県側は回答不能に陥ったのか、理由を示さずに2資料を削除(5回検討部会201178)しました。そして新たに差替えた写真が今回の岩井堂山でしたので、県検討部会は、又しても同質の過ちを繰り返したことになるのです。

では何故、優秀な県職員がこんな過誤を重ねたのでしょうか? それは全国を覆う空散問題の「伝統的体質」が深く関与していますから、県職員だけを責められない非常に根深い構造があるからなのです。その根源は35年前の「松くい虫防除特別措置法」(1977418)に遡ります。制定5ケ月後(81国会912)に根拠データの“捏造・改ざん・隠蔽”が発覚(9例中6例)して農林官僚が処分された事件がありました。しかし、「法律」はそのまま無傷で、今日に至っているのです(3度継続し、今は森林病害虫防除法で実施)。信じられませんが、こういう大問題が不問にされているのです。

3.参加者全員で合意した4項目決議

最後に、次の4つの確認事項を決議して閉会しました。この決議には空散に肯定的な方々の意見もありながらも、現地調査の結果、参加者全員で合意・賛同できました。
  • 現地調査に基づき、坂城町・千曲市の空散「効果写真」は適切ではありません。
  • 従って、最終決定資料から「効果写真」を撤回すると共に、効果を示す資料の再提出を求めます。
  • 実施主体である「市町村」は、この結果を重く受け止めて判断して頂きたい。
  • 空中散布を見直して、速やかに具体的な「代替防除方法」を検討・実施して下さい。

Ⅲ.差迫る課題―坂城町の推進地区住民との対立構図の克服を!

3年間中止した坂城町では空散再開への活発な動きが展開中です。上平地区では「住民総決起集会」(8020111127)が開かれ、坂城町長に「要望書」(1128)を提出しました。総決起集会においては、件の如くに岩井堂山での『効果比較写真』が縦横に活用されて、空散再開の根拠付けにされました。上平地区住民は松枯れによる岩井堂山の崩落を心配しているようですが、私は《岩井堂山をめぐる“空散効果問題の本質”》が住民間で共有化されないもどかしさに、胸が掻きむしられる思いがします。

坂城町民には【健康問題と効果問題を両輪にした住民学習会】が緊急に必要です。空散健康被害者と里山を守る地区住民との「対立構図」を止揚する為にもですが、その様な戦略・戦術を地域に依拠して組立てる組織的力量が問われている昨今です。

(唐臼山の老松「切り株」と対話して脱稿/201218)

ヤマンバの会

会長家氏しげ子のんどり人生道場(What's newより)

村山隆さん(「長野のエース」より)
http://www.pref.nagano.jp/kikaku/kikaku/ace/murayama/murayama.htm


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2012年1月14日土曜日

「地元学」は,すばらしい!

1月9〜10日と住宅生産性研究会の戸谷理事長さんに,信州せいしゅん村に来て頂き,今後の村おこし活動についてアドバイスを頂きました。その時に小林村長が提起した内容は地元学そのものだと思いました。改めて地元学を見直しました。
お断り:この文章はWebにあったPDFからコピーしました。
著者名が「吉本哲郎(地元学ネットワーク主宰)」とありましたので,ご本人のものかと思います。
深く感謝を捧げながら転載させて頂きます。
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地元学とは!
                吉本哲郎(地元学ネットワーク主宰)

私たちが何気なく過ごしてきた地域には、実はすばらしいものがあります。「こん なものが」と思うような「あたりまえのもの」が、実は外の人が見れば新鮮で、価 値があるものだったりします。それを見出すことが地域の持っている力、人の持っ ている力を引き出す地元学の第一歩です。
地元学は、地元にあるものを探し、新しく組み合わせたりして、町や村の元気を
つくっていきます。でも、その取り組み方や対象はさまざまのです。なぜなら、土
地や地域が違うし、住んでいる人も違うからです。

次のような考え方を地元学の基本としています。
・ 地元に住んでいる人が主体的に行います。
・ 学問(民俗学等)や物知り学ではなく、調べたことを町や村の元気づくりに
  役立てていくものです。役立てるために調べていきます。
・ 地域住民だけでなく、地域外の人、いわゆる「風の人」の視点や
  助言を得ながら、地元を調べていきます。
・ 第一歩は、自分の家を調べることから始まります。
 お父さんやお母さんがどんな気持ちで自分を育ててきたのか、
 家まわりにどんな植物があり、使われているのかなどです。 
・ 自分たちのつながりを充実していきます。

地元学の取り組み方
地元学は、単なる「地域にあるもの探し」で終わらせることなく、地域づくり、
生活づくり、ものづくりに役立てていきます。最初は、基本的な調査である「水の ゆくえ」と「あるもの探し」をするのがいいでしょう。ただし、最初から地域の抱 えている問題や課題に沿って調べることもあります。

基礎的・基盤的な地域調べ 
「水のゆくえ」と「あるもの探し」
「水のゆくえ」 地形図に、川、沢、谷に色を塗り名前を書き込みます。農業用水路とその取水口
である堰、飲み水の水源(上水道、簡易水道、自家水道)とその管路(幹線)、池、 雑木山、山とその高さ、名前、尾根(取水域)、田、畑、井戸、排水の流れ先、自 然神(山の神さん、水神さん、田の神さん、荒神さん)を書き入れていきます。
水(雨とその降り方、川)、土(地形、地質、地味)、光(太陽の道)、風(風 の道、風の名前)も書き込みます。
書き込んだら、川の形、南向きかどうか、集落は山に囲まれているのか、平たいところなのか、山のふもとなのか、そこに繰り広げられてきた風土と暮らしの関係 を読み取っていきます。また、昔の森や川はどうだったのか、なども書き込み、風 土と暮らしの移り変わりを書き込みます。
最後に、これらを全部眺めて、ここはどういうところなのかを書き込みます。土 地の個性です。土地の個性を表現することにつながります。

「あるもの探し」
地元学は、住んでいる地域にあるものを見つめることから始まります。「ゆっく
り」と集落を歩いて、急がず、あせらず、「じっくり」と家のまわりや集落にある
有用植物、家庭菜園の様子、路傍の神仏、石碑行事・祭りなど地域にあるものを徹 底的に探していきます。


風の人・土の人
あるもの探しには、地域外の人も参加します。外の人は聞き役、地元の人が案内 します。地元学では、地域外の人を「風の人」、地元の人を「土の人」と呼んでい ます。外の人の視点で見ると地元の人が気がつかなかったことが見えてくるからで す。
外の人はあくまでも助言者です。主役は地元の人たちです。外の人たちは地元の 人の話に耳を傾け、問いかけて調べていきます。

アドバイザー 
初めて地元学に取り組むときには、地元学の経験を持つアドバイザーが重要な役
割を果たします。地元学の進め方を地域の人たちにわかりやすく説明して地元学の
実践を助けていきます。

地元学リーダー
地域を見つめたい。地域をもっとよく知りたい。地域を地元学の取り組みから考 えてみたいなど、自ら率先して地元学の実践に参加し、経験を重ねた人たちの中か ら地元学リーダーが生まれてきます。地元学リーダーは、地元学の取り組みを的確に進めることのできる人です。


地元に学ぶ
私たちは足元のことをよく知っているのだろうか?
次の問いに答えてみましょう

1 あなたの身の回りのことを教えてください。
Q1 あなたの家で飲んだり使ったりしている水は、 
  どこから来てどこへ行っていますか。
Q2 家の近くの川で、昔はどんな遊びをしていましたか。
  そこは今どうなっていますか。 
Q3 あなたの住んでいるところで一番高い山はどこですか。
  そこは今どうなっていますか。
Q4 冬と夏の太陽はどこから昇り、どこに沈みますか。
Q5 強い風や寒い風はどの方向から吹きますか。
Q6 あなたは、今、どの方向を見ていますか。
Q7 あなたの近くの山はどんな食べ物がありますか。
Q8 あなたの家にいる、人以外の生き物は何ですか。
Q9 あなたの住んでいるところに、昔からあった生活技術をあげてください。
Q10 あなたの住んでいるところに、昔からあったエネルギー源はなんですか。
Q11 あなたの住んでいるところで、昔から信仰している
  自然神はどのようなものですか。
Q12 あなたの住んでいるところで、
  誇りに思うことや モノをあげてください。

2 あなたの住んでいる地区をあなたの言葉で案内してください。


地元学を行う場合の注意点

● グループで歩く 
風の人(外のひと)と土の人(地元のひと)が一緒に歩きます。地元の人が気
がつかない発見があるかもしれません。

●ゆっくり歩く 
急ぎ足では、いろんなことに気がつきにくいものです。風や鳥や木や草花と会
話をするつもりで、ゆっくりと歩いてみましょう。

●役割を決めて歩く
地元学では、グループごとにそれぞれ参加者の役割を決めて歩きます。
*案内人:メンバーが見つけた「もの」を説明する人。地元のみなさんです。
*記録する:「あるもの」を見つけた場所とメモを地図に記入する人。
*写真をとる:「あるもの」を写真に撮る人。
*あるものを探す:「あるもの」を探し、これは何かなどと質問して引き出す人。

●なんだろう?が大切
地元学では「これはなんだろう?」という疑問が大切です。 三回「なぜ?」
をいうことです。

●「あるものさがし」
地元学では、地域の暮らしの中にある生活の道具や食の習慣、祭りやしきたり、
路傍の石碑、今は無くなってしまったけれど昔あったものなど当たり前にあるも のを探す「あるものさがし」を行います。

●地形
地図と向かい合って気づくことはなんでしょうか。
地図を広げて地域の地形を見てみましょう。等高線からどんな地形が見えるで しょうか。普段歩き慣れた道、近くにあるのに歩いたことのない道、路地の向こ うの山道、山ふところにつつまれるように寄り添って暮らす家々、稜線の向こう に広がる隣町、川はどんな流れをつくっていますか。田畑はどんなところに多い のでしょうか。

●道や建物 
昔からあった道、最近できた道、もうなくなってしまった道など、道は地域の
暮らしや文化と密接にかかわっています。今は使われていない道の奥にぽつんと 取り残された小さなほこらがあるかもしれません。地域の伝統文化を色濃く残し
た建物は貴重な地域のすばらしいものです。

●水のゆくえ 
暮らしに欠かせない水は、どこからくるのか、どのように使われているのか、それは飲み水か、川から引かれているのかなど「水のゆくえ」を調べると地域の今 と昔が見えてきます。そして水のわき出るところに大きな木があったりします。で も、どうして水と大気は関係あるのでしょうか。1軒の家の水回りをていねいに調 べると水が生活にとってどんな意味をもっているのか地域の特長が見えてきます。 みなさんの地域には、川、堀、沼、井戸、ため池などはありますか。その水はどこ へ流れていきますか。

●暮らしや道具 
あたりまえの暮らしの中にいろんな道具が使われています。生活の時間や食べ物は、営む仕事や地域によっても違います。みなさんの地域ではどんな 暮らし を営み、どんな道具を使っていますか。
「暮らしの暦」「暮らしと食」「若い人の暮らし」「家族の暮らし」「農家の 暮らし」「漁家の暮らし」などをつくってみると地域の暮らしに広がりと深みが でてきます。

●草花や生き物 
身近にどんな草花や生き物がいるのか案外気がついていないことが多いもので
す。どんな草花や生き物がいるかを調べてみると、地域のようすが見えてきます。 

●写真とメモ(記録)と地図への記入
気になるところ、興味のあるところなどを歩きながら地図にその場所を書き込みます。さらにカメラでも写しておきます。写真に撮ったものについて案内人に尋ね、説明したことを忘れないようにメモします。また、みんなで話し合いなが ら気がついたことや思いついたことなどもメモしておきます。

●お年寄りに聞く
案内役がわからなかったことでも近所のお年寄りなら昔のことを知っているか もしれません。「こんなことあった?あんなことはどうだった?」と聞いてみま しょう。「小さいときどこで遊んだの?」「遊んでた場所は今どうなった?」 「何が楽しみだったのかな?」などお年寄りが知っていることを聞きましょう。

●農家などをたずねて、地元の人たちの当たり前の暮らしを聞く 
長く土地に住んで畑を耕し、田んぼをつくり、漁場を守ってきた地元の人たち は、生活の中に地域に暮らす知恵を培っています。でも、地元にとって当たり前 のことは、「そんなことは当たり前だ、山は山だ」となってしまい、説明しにく いものです。でも、当たり前のことが実氏すごいことなのです。文化なのです。 生きる知恵なのです。外からみるとのひとには宝に思えるものがたくさんありま
す。地域の今と昔を知っている人に会って話を聞きましょう。

●人の集まるところを調べる お店などをたずねる 
人が集まるところはお互いの消息がわかったり、手伝いがいるかどうかなど一
日のすべてが始まるところでもありました。 村のお店やばあ様たちの集まる個人の家、あるところでは、お寺、若いお母さんたちは保育園に子どもを迎えに行き、そこでちょっとおしゃべりしたりしてい ます。漁村では海女小屋とかです。


あるもの(地域情報)カード

●あるもの(地域情報)カードをつくる
 ★写真を貼り、撮影場所、撮影年月日を記入する
  あるものカード(地域情報カード)にあるものを撮った写真を貼り付け、
撮影場所、撮影年月日を記入します。 
 ★タイトルを書く
タイトルは、写真に撮った地域のあるものの特長や気がついた内容にそって
わかりやすく短い言葉にして記入します。
 ★説明を書き込む
  あるものについて、地元の人に地域での呼び方や使われ方、
意味などをたずねて記録します。 特に気がついたことや感想があれば
短いコメントとしてカードに記録しておきます。小さな発見が地域の
元気づくりにつながる大事な手がかりになります。

●テーマ別にまとめてみる 
あるものカード(地域情報カード)ができたら、次に、水(雨)、土(地質や地形)、植物、生物、山、川、沼、里の暮らし、暮らしの道具、作物など内容の近 いものを一緒に集めます。
大まかに分類したカードの内容をさらにカードのタイトルを見ながら内容にふ さわしいテーマをつけてまとめます。「Aさんの家の水のゆくえ」「神さまと暮ら し」「古い街道」「食と食材」「まつり暦」など内容に合ったテーマを自由につけ てみます。

●あるものリストの作成 
あるものマップの丸シールの通し番号にしたがって、チェックした場所の「もの」が何かをタイトルをつけて表にします。地域にどんな資源があるかをわかり やすく表にまとめたものが「あるものリスト」です。

●いろんな発見を話し合いましょう
地域をじっくりそしてゆっくり歩いてみつけた「あるもの」は、形のあるもの ばかりとは限りません。かつてあったけれども今はもうなくなってしまった、思 い出の中にだけあるものかもしれません。いろんな発見を話し合いましょう。

●気づいたことをみんなで考えよう 
いろんなあるものが集まると、それまで気がつかなかった地域の個性や特長が見えてきます。「まだあれもある、これもある、こうではない、そうではない」 など気づいたことをみんなで考えましょう。

●みんなで情報を共有しましょう 
あるものカード(資源カード)やあるものマップは、地域の方がいつでも見ることができるよう工夫したいものです。絵地図にしてみんなで持っているのも一つ の方法です。また、公民館や地域コミュニティセンターに置いて公開する方法も あります。
地域の情報は地域のみんなで共有しましょう。


発表する

発表会では、地元学の地域点検に参加した全員が、各自お気に入りの「あるも のカード」やさらにあるものカードをグループで話し合い整理された「あるもの マップ」を紹介します。調べたことの簡単な概要と調べて驚いたこと気づいたこ とわ伝えていきます。


考える

地元学であるもの探しをしたらどのように使いこなしていくかなどを考えてい きます。

考え方 
つなぐ 海と山と川はつないで考える
重ねる 単なる歴史ではなく、生活の移り変わり、プロパンガスの登場、
    人工林の 拡大、砂防ダムづくり、家庭電化製品、車などの普及、 
    人口の増減などをいくつも重ねて時代の移り変わりを見ていきま す。
    すると特徴が見えてきます。
はぐ  重ねるの反対で、新しいものとか時代をはいでみていきます。 
    すると、実は神社は昔は今のようなたてものではなかったこと、 
    仏教建築の影響だったこと、山は先祖の魂が一時とどまるところ
    だったことなどが見えてきます。


これらの「つなぐ、重ねる、はぐ」で地域にあるものの本質ほ見抜いていきます。 モノの持っている質、人の持っている質、風土と暮らしの移り変わりという質、 地域の質、お客の質、これらの掛け算が実は商品化なのです。


つくる・役立てる
以上のことがわかって初めて作る役立てることができます。
専門性が必要になります。
                              以上

このPDFのURL
http://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/conveni/living/kankyo/k_kihonkeikaku/jimoto/jimoto_i.pdf#search='地元学'

吉本哲郎紹介URL
http://www.ruralnet.or.jp/ouen/meibo/154.html



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