2012年4月12日木曜日

「犬と鬼」が見た,日本の街づくり・都市づくり


「犬と鬼・知られざる日本の肖像アレックス・カー著が出版されたのは2002年ですから,10年前です。それ以来,何度か知人から,読むように薦められましたが,昨日ようやく読み終えました。

私は特に”まちづくり”の部分に注目しながら読みましたが,よくぞここまで書いてくれたと感動しました。私が長年,苦々しく,恥ずかしく思っていたことが全て書かれていました。

内容を細かく検証すれば,間違いや誤解,データの違いなどがあるのかも知れませんが,この国の流れの捉え方と,彼の理念と価値観は素直に受入れられます。10年前の本なのに,今読んでも何の遜色もありません。ということは,この10年間ーというより20年間,日本は止まったままということになります。

このブログでは,まずWebにあった書評を紹介し,続いて”まちづくり”・都市づくりに関連するところの抜粋をご紹介致します。
抜粋なので,意味がつながらないかも知れませんが,日本の”まちづくり”,都市づくり失敗の本質が語られています。

ここでご紹介するのは,極々一部分です。実物を読んで頂くのが一番良いですが,このブログに掲載した3倍位の抜粋があります。
私のアドレスにお知らせ頂ければお送り致します。

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著者紹介
Wikipediaより,アレックス・カーについて>
1952年,メリーランド州ベセスダ生まれ。アメリカ海軍所属の弁護士だった父親に付き添いナポリ、ホノルル、ワシントンD.C.に滞在。1964年に来日。横浜の米軍海軍基地に滞在する。
イェール大学日本学専攻卒業。国際ロータリー奨学生として慶應義塾大学国際センターへ留学(1972- 1973年)。留学中にヒッチハイクで日本中を旅し、旅の途中で訪れた徳島県祖谷に感銘を受け約300年前の藁葺き屋根の古民家篪庵を購入し修復し居住する。
日本では京都の町屋再生事業、コンサルティング事業を手がける株式会社庵(いおり)

書評
Alex Kerr.com より>
http://www.alex-kerr.com/index.html
エディターレビュー:


日本で育ち、日本をこよなく愛するアメリカ人である著者が、怒りと悲しみを込めて現代日本の病理を暴く。破壊される 自然環境、ちぐはぐな都市建築、日本の魂を崩壊させる官僚政治。慢性的に進行する日本の「文化の病」を、丹念 に掘り起こしてわれわれ日本人に突きつける、衝撃の1冊。 

コンクリートで固められダムになる美しい山河や、全長の55%もがブロックやテトラポッドで覆われている海岸。不法投棄 の産業廃棄物の山と、そこから流れ出すダイオキシン。電線が空中を走り、けばけばしい広告看板をつけたビルがごちゃ ごちゃと建ち並ぶ街なみ。そして、全国に増え続ける多目的ホール、テーマパーク、人工島、高速道路などの無意味な モニュメント。こんな光景を美しいと思っている日本人はひとりもいないだろう。なぜこんなものを作ったのか、なぜこんな国 になってしまったのかと著者に問われるのは、まったくお恥ずかしい限りである。
 
著者がその原因として指摘するのは、責任が不明瞭なまま機能してしまう行政システムと、その根本にある日本独特 の官僚制度である。外国人の視点で見ると、日本の官僚制度の奇異さがよくわかる。天下りで個人的な利益を得る 、特殊法人の運営で省庁が潤う、族議員とパイプを作り政界とも通じる。この馴れあいシステムによって、多額の公金 が本当に必要なところには施されず、官僚にメリットを与えるところに注がれる。
自分たちに従順におとなしく従う国民を、都合よく作りだす教育システムまで官僚は作ったのだと著者は言う。子どもた ちは足並みそろえて行動することを強要される。がんばることは美徳と教えられるが、これはひどい環境でも耐え忍べとい うことだ。
教育制度不信から子どもの塾通いが増え、子どもはいつも忙しくてがんじがらめになる。そしてその後の大学 生活で、成績など問われず無為に遊んで過ごせば、分析的な思考法や独創的な発想能力、自然環境に対する愛情などを持たない骨抜きの腑抜けができあがるのは当然だ。 


 
韓非子の故事から取ったというタイトルは、抜本的な解決が難しい日本の諸問題を「上手に本物らしく描くのが難しい 犬」にたとえ、日本で行われている数々の無意味な施策を「どうとでも描ける想像物である鬼」にたとえて付けられてい る。
外国人が日本に対して何かを要求するのはおかしいという信念から、本書には「日本はこうすべきである」という表現は いっさいない。が、1900年代前半の、大日本帝国の拡大とその後の悲劇的結末へのプロセスと同じ道筋を、今また日 本はたどっているという著者の警告を、われわれは真摯に受けとめるべきだろう。(篠田なぎさ)


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以下,文中よりエッセンスを抜粋

P37 アイゼンハワー大統領は,子供の頃自分の家はひどく貧しかったと語り,「しかし,これがアメリカの不思議なところだが,自分が貧乏だと感じたことは一度もない」と述べている。日本の不思議さはこれと全く逆のところにある。本当は豊かなのに,誰も豊かに感じていない。だから新しい線路だの,セメントで覆った土手だのをしょっちゅう与えられないと安心できない。
振り返ってみると,日本の「進歩」や「豊かさ」に対するスタンスは,だいたい45年から65年までの間に確立してきたものばかりだ。それが今でも続いている。60年代に始まった思考回路と,21世紀の現実とのミスマッチ,それが現在の「文化の病」の基調になっている。

P137 メディアに官僚スキャンダルがよく取り上げられるが,それは桁外れな取り過ぎを正すものであって,慢性的に金を取る制度そのものは非難されない。それは鬼(派手で表面だけ)の対処になり犬(根本的な)改革は行われていないため,腐敗のシステムはそのまま残る。本格的改革をしようとすればシステムを改める必要がある。

P168 外国人が自分達の文明レベルを日本に求めたがらないのは,心の中に二つの矛盾したイメージがダブっているからだ。経済成長を誉めながらも,発展途上国として同情の目で見ている。西洋ではやはり,第二次世界大戦の被害に対する罪悪感も少々残り,しかも日本の経済システムは産業拡大だけが目的で,一般市民の生活向上のためではないので,西洋の目でみれば,日本の街と田舎は本当に可哀相で未発展でみすぼらしく見える。

P171 日本初の女性国会議員加藤シズエは100才の誕生日に「ジャパン・タイムズ」にこう書いている。「ラフカディオ・ハーン」の文章を読み,美しい風景を期待して日本を訪れる多くの外国人は,美しく比類のない文化遺産を日本人が無惨にも破壊しているのを目のあたりにして,驚き憤っているであろう」。
残念ながら,加藤の嘆きは的外れである。海外の報道には,京都の惨状に対する驚きや憤りはまったく見当たらない。
欧米の観光客は,アジアを見下げているせいもあって,きちんと保護された観光名所と,ただ不快でしかない街の景観とを区別しようとしない。周囲の山の麓に立派な庭があるというだけで,他はガラスとコンクリートの箱の集まりであることを見逃してしまう。

結局パリやヴェネチィアには期待することを,京都には期待していない。なるほど庭や寺はすばらしいが,文化都市をつくるのは世界遺産だけではなく通りや街並だ。京都では中途半端な「特別保護区」がいくつかあるとはいえ,根本的に古い道のほとんどが一貫して歴史観を失っている。
これがパリやヴェネチィアなら,旅行者は文化遺産だけが目的で街を無視することはない。ルーブル美術館だけが観たくてパリを訪ねたり,サンマルコ大聖堂のためだけにヴェネチィアに出かける人がいるだろうか。
こういう街を訪れる楽しみは,通りを散策し,雰囲気を味わい,どうということもないが,味のある小さな店で食事をする,そんなところにある。
絵に描いたような小路の古びた風情,すり減った石,街灯,ひたひたと流れる水,木の鎧戸,そういうものが五感を楽しませてくれるのだ。
・・・中略
それでもやはり,加藤シズエは正しかった。京都を訪れた人々はどことなく失望する。頭では美しい庭に意識を集中し,おぞましい環境を無視することができても,心は逆のことを語る。このため90年代に入ると,観光客は,日本人外国人共に増加していない。
・・・中略
京都の現実をわが目で確かめたいと思うなら,エレベーターでリーガロイヤルホテルの最上階にのぼってみるといい。駅に近いこのホテルは,ほぼ街の中心に位置している。ここが京都だということをしばし忘れて,ぐるり360度眺め回してみよう。東寺の五重塔と本願寺の屋根の一部を除けば,どちらを向いてもごちゃごちゃと立ち並ぶコンクリートのビルが見えるばかりだ。世界にこれほど退屈な都市景観は少ない。

市街地の向こうには,幸いにして開発をまぬがれた周辺の山々が残っているが,荒廃はそこで終っているわけではない。南は大阪から瀬戸内海沿岸まで,途切れることなく工業地帯が続く。東の山並みを越えると,同じくコンクリートの箱の雑然として山科の街が広がり,延々と同じ光景が続いた先に名古屋がある。そこには何百万という人々が住んでいるが,まったくといっていいほど見るべきものがない。

そのまま,200300キロ似たような景色が続き,たどり着いた東京も名古屋より多少ましという程度である。96年に日本を旅したロバート・マクニールは,電車の窓から見える景色に幻滅し,「味もそっけもない効率一点張りのゴミゴミした眺めは見るのもつらく,トンネルに入るとほっとしたほどだ」と語った。
40年間で京都の美しさがことごとく消し去られたことを考えると,ほかの都市や街を襲った運命も想像がつく。国中で,京都が京都らしさを排除しようとしたのと同じことが起きていた。古い街並は取り壊され,かろうじてつまらない形で残っている。
・・・中略。


暮しの場である街並を保存するには,古さと新しさを融合させる高度な技術が必要になる。たとえばエール大学は,図書館の壁をいったんはがし,ハイテクの除湿設備を組み込み,その上に古い石をもう一度並べている。日本の修復テクノロジーは65年を境に成長を止め,以来古いものをそのまま完璧に保存する方法しか考えてこなかった。そのため,古い建物のもつ温かみと雰囲気を,新しい建物に魅力的に生かそうにも,その手法を知っている人がいない。
 「テクノロジーの固定化」の結果,日本は「古い=不便」と「新しい=味気ない」という両極端の間で引き裂かれている。古い不便さ,新しさと味気なさ,この断絶を埋めるものがなにもない状態,それが現代日本の街の風景だと言えるかもしれない。
・・・中略。

国内外の観光客が日本にそっぽを向いた理由はいくつかある。一般に,最大の理由は円高と旅行費用の高さだと考えられている。しかし,日本旅行が安いとはいえないものの,近頃ではロンドンでもパリでも同じくらい高くつく。タイの贅沢なリゾートは,平気で一泊6万〜7万円使う裕福な外国人旅行者であふれている。そういう人々とっては費用などものの数ではないはずだが,彼らは日本に来ようとはしない。
 本当の理由(はっきり意識していないかもしれないが,心の中ではまちがいなく感じている)は,お金をかけて日本を旅しても,美しい景色や快適さという形でも見返りが期待できないところにある。
・・・中略。


P193 古い都市の話しはよしとして,次は新しい都市について見ていこう。京都タワーに始まる開発の動機は,古い街から逃げて,現代都市を造ることがすべてだった。したがって,現代性という基準で京都を判断しなければ公正とは言えないだろう。
もし仮に,京都から歴史的な遺産がすべて消えてなくなったとしても,老朽化した建物に代わり新しいしゃれた大都市が生まれ,最先端の現代文化が花咲いたとすれば,徹底した近代主義者はそれでよしと考えるかもしれない。日本全体について言えることだろう。

これは香港で起こったことだ。木々に囲まれ,古めかしいジャンク船がひしめいていた港が,まばゆいオフィスビルが林立する大都会へと変身した。現代の奇跡とも言える変貌ぶりだった。同じことは上海とバンコクでも起こりはじめている。
この二都市のどちらも,開発業者によってチャーミングな古い都市の中心部が手荒な扱いを受けている。とはいえ,古い都市の代わりに,ホコリの中から新しい都市が劇的に生まれつつある。ホテル,レストラン,高級オフィスビル,マンションは,香港やニューヨークの最上クラスと比較しても遜色ない。

しかし,日本はこうはならなかった。「新しいものは日本のおはこ」という一般的なイメージに反して,日本が抱える問題は真の近代化を学ばないまま発展したことにある。金融分野などと同じで,都市の設計・開発の手法も,本質的には65年前後から進歩していない。リーガロイヤルホテル京都の最上階からの醜悪な眺めは,古い建物がなくなったからではなく,新しい建物がお粗末なせいだ。
過去50年にわたる「日本の近代化」は決まり文句となり,その出版物は山ほどあるが,近代性を得られなかったという現実はこれと正反対だ。


 先進文明ではなく,日本はスラムに近い一般住宅と工業ジャンクに溢れた文化となった。住宅は狭く,ちゃちな造り,公的施設(ホテル・公園・動物園・マンション・病院・図書館)は他の先進国の目で見ると,美観や快適さを基本的に欠いている。本質的な意味で新しいものを獲得できなかったーそれが今の文化危機の中核だ。
経済・社会学者は「強国・貧民」という仕組みを,日本の強みと見てきたが,それは,ブーメランとなって恐ろしい力で跳ね返ってきた。「強国・貧民」の思想では,経費を抑え個人生活を犠牲にすれば,国のあらゆる資産とエネルギーは限りなく製造業へと流れ込む。まさにその通りになった。
 このプロセスで,真の近代化を知らないーーはっきり言えば,現代人としての潤いと輝きを知らないーー国民を育て,文化・経済面に深刻な結果となって現れてきた。

P204 容積率と日照権に,屋上の空ボックスを促進するルールを加えると,その結果,日本特有の混沌とした都市景観になる。おまけにゾーニングや看板の規制もなく,自動販売機が氾濫し,電線が上空を覆い,日本の街並を特徴づける雑然とした眺めが生まれる。くつろげる公園も,落ちついた街路も少なく,ごたごたと立ち並ぶビルもやはり看板や電中で覆われている。
この雑然とした風景がすっかり当たり前になってしまい,日本の建築家にはこれ以外の風景は想像もできなくなっている。数多くの庭園があり,整然と区画割りされた古都京都や北京,ペナン,ハノイの例を持ち出すまでもなくその反証がいくらでもあるのに,木陰もない都市がどういうわけか「アジアらしい」ものとして正当化されている。

P208 先ごろ,アンドルー・マークルという16才のアメリカの少年が,学校の休みを利用して,大阪に住む両親を訪ねてきた。そのとき,彼と両親と私と4人で,車で神戸から東に向かい,大阪を抜け,大阪湾に沿って,新関西空港近くの泉大津まで出かけたことがあった。高架の高速道路を走っていると,見渡す限り工業地帯が広がっているー何時間走っても,そのおぞましい景色はなかなか終らない。
周囲の工場とろくに見分けもつかない,無機質に立ち並ぶマンションに何百万もの人々が住んでいるのだ。点滅する看板,高圧電線を支える鉄塔,木々も公園もなくどこまでも広がるビルと炎を吹き上げる煙突を,アンドルーはしげしげと眺めていたが,やがて言った。
 「学校でよく日本のマンガを読むんだけど,日本人の描く未来にはいつも感心していた。終末的っていうのかな。ああいう発想がどこから出てくるのかこれでわかったよ」

殺風景な街並みに慣れていくように,人々は安っぽい工業製品に心地よさを感じるようになる。以前,京都に住むアート・コレクターのデイヴィット・キッドがこんなことを言っていた。「模造の木材にすっかり慣れちゃって,日本人は模造と本物の区別がつかなくなっている。同じものだと思っているんだ」。
この混同の実例が見たければ,北九州の有田陶磁美術館を訪ねるとよい。手仕事の伊万里焼という伝統美術を紹介する場所なのに,建物はロココ様式で,コンクリートを加工して石壁に見せかけてある。食堂のテーブルは木目をプリントしたプラスチック製。職人の技を称えるために,高額の費用を投じて建てられた美術館がこれである。

(なぜ,こうなってしまたのか)
P210 日本では「近代化」について時代遅れのイメージを引きずっているということだ。ピカピカ輝くものが豊かさと技術的進歩のしるしであり,静けさや落ち着いた雰囲気は古くさいと考えているわけだ。いずれにせよ,キーワードは「ピカピカ」だ。
大都会でも田舎町でも1ブロックでも歩けば,ピカピカの白いタイル張りの建物,鏡のようなクロムの外壁,閃光を放つ看板ばかりだ。屋内に入っても同じである。日本は60年代のSF映画の描く未来像にはまりこんでしまった。
61年,私が幼かったころ,わが家のキッチンの床がリノリウム張りになった。そのわくわくしたこと!当時,ピカピカのプラスチックはどこでももてはやされていた。だが世は移り,人々はプラスチックでは及ばない本物のよさに気がついたが,日本はその時代から抜け出せずにいるようだ。

P212 よくある誤解のひとつに,日本は人口に見合う国土が足りないと思い込みがある。「人口が多すぎる」せいで地価が高いと誰もが信じ込んでいる。だが実際には,ヨーロッパでは日本と同等の人口密度の国が大半である。もうひとつの土地に対する神話では,日本では急傾斜の山が多いので,人が住める面積が少ない。
それでは「人が住める土地」とはどういうことだろう。急斜面では,昔ではトスカーナ地方,近代ではサンフランシスコと香港の発展の邪魔にはならなかった。問題は土地の使い方にあるのだ。

P215 住宅の開発に失敗すれば,それに関連する多くの産業も足を引っぱられる。特に顕著なのが家具,そして室内装飾である。蛍光灯が一般的に使われていて,住宅はもちろん,ホテルのロビーや美術館までその青みがかったまぶしい光で照明されている。自然木の家具もしだいに見られなくなっている。自生の広葉樹林(桜,柿,欅,楓,ブナなど)を伐採し,用材杉の単純林にしてしまったことが,こんなところにも副作用を及ぼしている。

いずれにしても,ほとんどの人はもちろん,金持ちでさえ胸を張って他人を招待できるような家には住んでいない。なにしろ,日本ではディナーパーティと言えば外食のことだ。自宅も庭で結婚披露宴を?とんでもない,とても考えられない。
財力や趣味に関係なく,人を招いて催しをしようとすれば,だれもが公共スペースーたとえばレストランやホテルの宴会場を使わざるを得ない。要するに,現代の日本には,友人達と親しく交流する場としての住宅は存在しなくなってきている。

P218 今日の日本の若い世代は,マークル一家が神戸から泉大津へのドライブで目にしたような風景になじんでいる。関東なら,成田エクスプレスで東京に向かう時に目にする光景と同じようなものだ。こんな景色が当たり前になっているから,現代日本の建築家は,快適な環境がなんたるかがわからなくなっている。リュックルゴスが予測したように,人間は「家に合わせてベットを用意し,ベットに合わせて布団を選び,残りの家財道具もそれにあわせて」,そしてまた人生をもそれにあわせていまったのだ。

P220 ローマ帝国の興亡を書いたエドワード・ギボンは,「すべて人間に関わる物事は,進歩しなければ退化する」と書いている。すぐれた工業技術,電気,水道,ガスがちゃんと整った都市,時刻表通りに走る鉄道など,日本は外面的には近代化の要素をすべて備えていた。
官僚,建築家,大学教授,都市計画者にとっては,日本は完璧な方程式にのっとっているように見えた。あとは,定まった方向に沿ってより大きな開発をしていけばよいのだ。だが,日本では時間が止まっているということに気がつかなかった。
官僚も学者もこのままでいいのだと自信満々で,国内外の新しい発想はいっさい受けつけてこなかった。近代化の中核である「変化」を捉え損ねたので,近代化の心をなくした。新しい考え方,斬新な知識を取り入れてこなかったために,ギボンが予言した通り都市でも地方でもクォリティ・オブ・ライフは後退した。

ここで現代日本の最もおかしい,本来あってはならない不思議な現象に出会う。それは世界から「美」の国として知られている日本には,現代風景の中に人間の手が加えられたもので美しいものがほとんどといっていいほど存在しないことだ。

P271 沈む保健会社
社会の高齢化はだれのせいでもない。原因をあえて求めるなら,日本の近代化が成功した証,すなわち出生率低下のせいである。日本ほど極端ではないが,あらゆる工業国にとって社会の高齢化は避けて通れない宿命だ。日本の真の問題は,その避けられない宿命に対して用意をしなかったことだ。世界有数のGDP,貯蓄率をもって,高齢化社会に対処する資力が日本には十分あると誰もがそう思っていた。

P306 東京大学はまさにエリートの頂点に立つ大学だが,欧米の基準で見れば学問の園であるどころか学問の墓場である。大学本来の一大目的は学生に社会奉仕精神,一種の倫理観を育てることだが,東大ではまったく心得ていない。
 卒業生はまっすぐ政府の省庁に入り,そこで賄賂を受取し,暴力団に金を貸し,カルテを改竄し,河川や海岸を破壊する計画を立てるーー同僚も教授も,それに対してうんともすんとも言わない。先進国の名だたる学府で,世界にも自国にもこれほど貢献していない大学はまずないだろう。

P308 日本の教育システムで学生達が教わっていない重要課題がある----分析的な思考法や,変った,もしくは独創的な質問をする能力,人類皆兄弟という意識,自然環境に対する愛情などだ。 
とくに,環境破壊の責任は,教育システムにあると断言できる。自分の環境に責任を負うことを教えない。そのため,少数の反骨精神の持ち主を除けば,河川や山がコンクリートで塗りつぶされても,だれもそれに気づいて抗議の声を上げようとはしない。

P363 来る革命の足音が聞こえる。日本と欧米,そして新たに富を得たアジア諸国とのギャップが広がるにつれて,無念の思いは高まっている。
・・中略。何百万という人々が海外旅行に出かけ,シンガポールの美しく効率的なチャンギ空港から,不快な成田に戻ってくる。その格差は甚だしくてとても無視できない。

P365 近年では「改革」が声だかに叫ばれており,特に金融や貿易の分野では官僚も恐る恐るながら改革に向かって進みはじめている。が,日本の改革の概念には,前向き姿勢がないという大きな欠陥だある。改革の目的がおおむね現状維持にと留まるということで,いつもの「犬と鬼」的方法によって,深刻な構造的問題に取組むのではなく,表面だけの変化ですます方法を見いだしている。

P366 人体測定学研究で名高いウィリアム・シェルドンは,ギリシャ神話のプロメテウスとエピメテウスという兄弟にヒントを得て,人間の心理のふたつの基本形の違いについて述べた。エピメテウスは常に過去を向いており,いっぽう人類に火をもたらしたプロメテウスは未来を見ている。エピメテウス型の人は前例を尊重し,プロメテウス型は人類の進歩に必要と思えば神々から火を盗んでくる。

P368 先ごろ,日本学の重鎮ドナルド・リッチーは,1965年に書いた「日本人への旅」の一文についてインタビューを受けた。そこで彼は,外国へ旅行する人々が増えるにつれて,日本人はほかの国の人々と似てくるだろうと予言していた。
リッチーはインタビューに答えて,「私が言いたかったのは,外へ出て他の人がどんなふうに生き,何を考えているかを見れば,もう自己満足にはひたってはいられなくなるということでした。しかし,私は完全に間違っていた。ジャルパックを予想していなかった。
日本人はパッケージで外国に行き,日本人観光客向けのワニ園を見て,独自の旗を振り,独自の必見スポットをもっている。これが大多数の日本人の旅行のしかたであり,これでは感動などありません」。

P369 海や川や山,そして町や都市の景観の悲しむべき状況の影にあるのも,やはりゆでガエル症候群である。でたらめな開発,モニュメント,奇怪な公共工事が,国の文化財産を台無しにしている。しかし,熱さは火傷するほどではない。なぜなら「古い文化」と「自然を愛する心」という子守唄が国民をうとうとさせているのだ。

P370 現在の苦境を表現するのにピッタリの言葉は「中途半端」である。美しい自然景観は存在するが,真の感動が得られることはめったにない。視野のどこかに,建設省が建てた醜く不要なものが必ず目に入ってくる。
京都は何百という寺院や石庭を保存しているが,録音されたアナウンスがその瞑想的な静けさをみだしているし,苔むした門を一歩出れば,そこにはゴミゴミした都市が広がっている。
教育制度は子供たちに試験のための知識を効率的に教え込んでいるが,自分で思考する方法は教えない。

P374 これからの数十年間,このままやっていけるだけの蓄えはある。これこそ日本の悲劇だ。中途半端から日本を目覚めさせることができるのは破産だけだろう。

P376 残念なことだが,経済崩壊はまず起きないだろう。水はしばらくぬるいままで,国民は中途半端というスープのなかでぬくぬくと眠り続け,国は徐々に衰退していく。「文明としての日本型資本主義」への墓標銘を刻む時がくれば,その銘は「ゆでガエル」だろう。

結論
P380 「日本のパラダイム」とは「強国・貧民」をいい,過去に,海外のオブザーバーはこれをうらやましく思い続けてきた。このパラダイムの美徳は国民が大きな犠牲を払うことにより,国家の経済力が増してゆくことである。
 しかし,今こそこのパラダイムを見直し,日本のコンクリートに覆われた川,ゴミゴミした街,金融界の不振,「ハローキティ」化された文化,みすぼらしいリゾート,公園,そして病院などを直視することが必要だ。
 過去の二世紀に,日本の課題は鎖国から脱却し,世界で活躍することだった。それにみごと成功し,最も力のある国になった。しかし,この成功はその裏に途方もなく大きい代償を伴ったものであった。
家路を探し求めるーこれが今世紀の課題だ。
抜粋終り

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