2013年10月30日水曜日

日本の住宅政策変遷小史

 NPO法人信州まちづくり研究会では,過去に数回,欧米の”まちづくり”,サステイナブル・コミュニティ,エコヴィレッジ,コウハウジング等を視察致しました。

 その結果判ってきたことは,日本の住宅政策と”まちづくり”政策は,非常に残念ながら,根本的に大きな間違いをしていることでした。

 ここでご紹介するNPO法人住宅生産性研究会(理事長:戸谷英世)さんの記述はその現実をよく捉えていると思いますので,掲載させて頂きました。

 HICPMメールマガジン第526号(平成25年9月23日)から転載致しました。
(原文は,住宅生産性研究会の下記ホームページのメールマガジン・バックナンバーから読むことができます。
 このブログはそのコピーです。 http://www.hicpm.com/ )

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皆さんこんにちは

 工務店の仕事は住宅金融はもとより、住宅のデザイン、機能、性能という住宅の効用に関するわが国の住宅政策に大きく関係しています。それは日本国憲法により、国家が国民に健康で文化的な生活を保障する社会契約があるからです。
 その契約に基づく住宅政策は固定的なものではなく、経済社会環境を反映して変化しています。工務店の経営者はその経営のため、国の住宅政策の流れを知っておく必要があります。そこで今回は、「日本の住宅政策変遷小史」を紹介します。

「住宅難の解消」から経済政策に目的が変化した住宅政策 

 現在、国民の住居費負担や、供給される住宅の基準の問題を国の住宅政策の基本問題と考える人はほとんどいません。しかし、歴史的には国民の住居費負担の問題が、住宅問題の基本であることは今も変わっていません。
 戦後の日本の住宅政策は、「住宅難世帯の解消」という量的不足の解消を政策の基本に置き、「夫婦を単位に世帯を形成する」とした新民法に合わせ、「1世帯1住宅」を基本に、国民の住居費負担の範囲で住宅を供給する公営住宅制度からから始まりました。


 戦後の日本経済は、米国の「極東の自由主義社会」の安全の実現のため、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の軍需を背景に、日本は米軍の兵站基地となり、重厚長大型産業が再生しました。
 住宅は産業政策を支援するため、地方公共団体による公営住宅、地方公共団体の行政区域を越えた通勤通学に応える公団住宅、公庫住宅に合わせて、公庫、公団による社宅(特定分譲住宅や産業労働者住宅)の建設として実施されました。
 いずれも政府が「シュワーベの法則」を我が国の条件に置き換え、家賃と住宅規模を入居者の住居費負担能力との関係で決定しました。

「1世帯1住宅」から「1人1室」へ

 朝鮮戦争特需を梃子に日本経済は復興し、60年日米安全保障条約の改定で、日米同盟は軍事と経済面での対等の相補関係になりました。
 所得倍増計画から列島改造計画に、さらには、全国総合開発により道路網を国土全体に建設し、経済は急成長しました。その過程で、都市改造土地区画整理事業により、道路と一体的に宅地を開発し住宅建設を促進しました。
 順調な宅地供給も相俟って、住宅統計上、世帯総数を上回る住宅総戸数となり、量的供給過剰状態がつくられました。

 住宅政策は「居住水準」の向上を3本の公共住宅(公営住宅、公庫住宅、公団住宅)で推進する住宅建設計画法(1965年)の時代に踏み出しました。「一世帯一住宅」から、「一人一室」に住宅の目標は引き上げられました。
 しかし、住居水準の引き上げは、政府の住宅政策によるというよりは、経済成長により、むしろ、若年世代の都市移動により世帯人数が減少したことと,新民法により大家族制が廃止され核家族化がすすめられたことと、出生率が低下した社会現象の結果でした。

財政(官僚)主導の住宅政策

 住宅建設計画法では、「量から質へ」という政策転換がとられ、あたかも政府の住宅政策により住宅難が解消されたかのように政府は説明し、御用学者は提灯を持ちました。確かに1968年には全国で、1973年にはすべての都道府県で住宅統計上も世帯総数を十分上回る住宅数が存在し、空き家が発生していました。

 政府はその政策の視点を「住宅難の解消」から「一世帯一住宅」へ、さらに「一人一室」へと居住者中心の政策が成果を実現したと説明しました。そしてそれ以後の住宅政策は、住宅産業を発展させることで、居住者のニーズに合わせて選択的に需要を発生させる住宅産業政策に転換しました。
 そのために政府が居住水準を主導して引き上げ、「居住水準以下の状態にある国民を、居住水準以上の住宅に住めるようにする方策」として、住宅政策上の住宅需要者には、政府(財政)主導の政府施策住宅(公営住宅、公団住宅、公庫住宅)で行うことになりました。

間違ったケインズ経済学の実践

 当時ケインズ経済学が産学官の経済を指導しており、米国の世界恐慌(1929年)からの復興をケインズの理論を実践して成功に導いたことが、日本の戦後復興はマルクス経済学ではだめで、ケインズ経済学によらなければならない風潮が広がっていました。

 米国からハーバード大学に学び名誉学位を授与された一橋大学の都留重人教授らケインズ主義者が帰国し、日本の経済学を転換しました。
 財政出動の呼び水に需要を創出する経済の良循環を形成するケインズ経済学が、日本では行財政が国家経済を引き回す社会主義的計画経済を正当化するように使われていました。

 この行政主導の住宅政策は、政府が住宅需要すべてを創出する住宅産業需要を丸抱えの政策でした。当然、官僚の住宅産業支配の利権の拡大となり、産・官・政・学で癒着した護送船団を形成することになりました。
 その後、公共住宅の予算獲得と予算配分の利権が政治家と官僚の利権と結びつき、腐敗の温床(護送船団)を形成することになりました。

「建て替え需要をつくるため」の「木造建築物20年の耐用年数」

 「居住水準の向上」政策の下で、住宅の「スクラップ・アンド・ビルド」が行われ、土地の高層高密度化が進められました。政府は、住宅の建て替えを促進するために住宅を償却資産とみなし、既存住宅の資産価値は残存価値であり、住宅は耐久消費財であると説明しました。

 まだ都市の住宅ストックは木造住宅が過半数を占めていた時代です。既存木造住宅は隙間風が入り断熱性能の低い住宅が大多数でした。
 木造住宅の寿命を長くするためには、隙間風を取り入れて木材に酸素を供給することが必要で、社寺仏閣も基本的に隙間風を取り入れることで長寿命を維持してきました。しかし、政府が既存住宅の価値は残存価値と言い切ったため、国民は政府の発言を信じ込まされました。

 多くの国民が金融機関に、既存住宅の資産評価を願い出ても、金融機関からは木造住宅は耐用年数は20年と言われ、見ても見ないでも同じで、建築後20年を経過した住宅は、取り壊し費用を考えれば、残存価値のない住宅といわれました。
 価値はないと言われることで、多くの木造家屋所有者は、政府の説明に騙されて、建て替えに踏ん切りを付け取り壊されました。

ハウスメーカーの需要創出のための住宅政策

 住宅生産の工業化を旗印に、ハウスメーカーの事業を拡大するために、健常な木造住宅を、単に、耐用年数が20年を経過したから償却し無価値になったと言って取り壊し、代わって、どこの国の文化を担っているのかわからない新しい流行を追ったデザインの住宅が建てられました。

 「居住水準の向上」という政策は、住宅統計上国民の居住水準を高めるためと説明されました。しかし、住宅政策の実体は優れた木造住宅資産を、単に、建築後20年以上経過しただけの理由で、建具の建付けや、隙間風を口実に、減価償却したと説明され取り壊し、都市の歴史文化を破壊しました。

 代わりに、新建材と新工法を導入した気密性の高いアルミサッシや防火性能が高い鋼製ドア、ステンレス流し、システムキチン、換気扇、熔化生地の衛生陶器、浴槽を取り込んだメーカーごとに違ったデザインの画一的なプレハブ住宅が、価値の高い住宅と説明され、建て替えられていきました。

 ハウスメーカーは既存住宅や他社と違う住宅は価値があると「差別化」し、街並み景観を破壊し、人びとに街への帰属意識を失わせてしまいました。その結果、ハウスメーカーを使った「文化大革命」が全国に吹き荒れました。

都市計画法の制定と都市再開発事業

 都市化は高度経済成長により急速に進み、都市に人口が集中し、それを受け止める形で、水道も電気もない木賃アパートや文化住宅が都市の基盤整備のない農地に無秩序に建てられました。
 道路、公園、下水道、電気、ガス、水道等のライフライン、教育施設が整備されていない都市に建築物が立つことを制限するため、1968年市街化区域と開発許可制度を柱とした都市計画法が制定されました。

 一方、既成市街地で低密度市街地では、地価の高騰を利用して、建て替えや都市再開発・都市再生事業で、スクラップ・アンド・ビルドが進められました。フローとしての住宅産業需要を拡大するために、良好な環境の住宅地にある貴重な木造住宅を、粗大塵同然に「土地の有効利用」の大義名分の下に取り壊していきまました。
 一方、全国総合開発計画が、ガソリン税を利用した全国道路整備事業として展開されました。道路整備事業は都市改造土地区画整理事業として宅地供給事業として展開されました。
 その結果のうち、山林、原野が戸建て住宅地として供給され、ハウスメーカーの事業の受け皿になっていきました。政府の住宅政策の最大の関心は、居住者の居住水準の向上から、住宅産業界の利潤追求と住宅投資、住宅投機に向かいました。

既存住宅取引を不可能にしたハウスメーカーの詐欺価格

 住宅政策は住宅を取得する国民の居住水準向上の政策から、公共住宅需要を利用した住宅産業育成政策に変質していきました。米国の工業生産住宅(OBT)を真似た日本の住宅産業政策は、米国でNAHBが危惧したとおり、地場の中小零細な組む公務店(ホームビルダー)を潰し、系列化していきました。

 ハウスメーカーは工場で生産性を上げて住宅を部品化して製造し、現場で短期に組み立てて得た利益の何倍もの費用を広告宣伝やモデルホームや営業マンの費用に掛け、それを販売価格で回収する方法をとりました。
 一般の工務店は生産性が低いため、同じ住宅を高くしか販売できませんでした。そこで、ハウスメーカーは住宅の市場価格に合わせて2倍の価格で販売しました。


 当然、営業経費で高額になった住宅はその価格の価値をもっていませんから、住宅は中古市場で過剰な営業経費分は評価されず、販売価格は半減します。住宅をもっている人は、損をすることを嫌って既存住宅販売は消滅状態になりました。
 既存住宅市場で取引されない住宅は、居住者とともに高齢者居住住宅となり、義務教育施設や商業施設を閉鎖に追い込む原因をつくり、結果として住宅を廃屋に追い込む原因になっています。
 政府の住宅政策はハウスメーカーの販売促進のための政策であったわけで、住宅購入者のことを考えてはいませんでした。

バブル経済下の住宅価格の高騰

 都市化を背景に、住宅産業のために大量の住宅が供給され市街化が急速度に進むと、地価は高騰しその地価を担保にした金融需要が拡大しました。
 おりしも、1986年「プラザ合意」後、1ドル240円の為替が1ドル120円に半減し、日本は世界の金融中枢になると騒がれ5000ヘクタールの商業床需要が生まれるという誤った予測に対応して日銀が率先した金融緩和が起こりました。

 金融を緩和が、東京が世界の金融中枢になるという不動産投資を生み、それが郊外から全国に向かう拡大再生産の循環が生まれ、都市開発が玉突き状態で郊外に向かって進行しました。やがて、不動産開発は都市から農村へ、やがて僻地の観光開発に向かいました。

 土地と株式とが相乗効果を発揮しあって高騰し、日本はバブル経済になりインフレが昂進しました。地価と株価と金利の上昇の中で、住宅価格が高騰しましたが、所得も給与外の資本収益が拡大し、実質所得が上昇しました。
 インフレで既存の住宅ローン残高が目減りし、既存のローン負担が軽減し、住宅の建て替えに踏み切れる環境が熟し、建て替え需要が拡大していきました。不動産価格高騰が拡大する環境下で、国民の住宅価格に関する感覚が狂っていきました。

ローン償還期限の延長による購入能力を逸脱した住宅販売の実現

 特に、政府は高額の不動産取引を推進するため、不動産担保の信用膨張を利用してローンの返済期間の延長により、短期的には「ローン痛」を軽減し、代わりに1生涯にわたり「ローン痛」を背負い込ますことで、国民の支払い能力を超えた住宅購買に走らせました。

 そのとき延長された返済期間が35年という長期ローンは世界中で日本だけです。日本で住宅政策と言われているものは、住宅産業界が販売を希望する高額な住宅を購入させるため、ローン返済期間を極限まで延長して、できるだけ多額の借金を背負わせるものでした。
 そして、景気を継続的に刺激する本末転倒した政策に変質してきました。バブル経済は企業経営の破綻に始まり、企業のリストラ、職員のリストラが進み、それが高額な住宅ローン返済不能事故の多発という形で現れました。

住宅金融公庫による「ゆとり償還」

 政府及び日銀によるバブル経済の制御が利かなくなったと三重野日銀総裁が判断し、一挙に金融引き締め政策を採りました。日銀による金融引き締めのハードランディングにより、経済バブルが崩壊しました。
 経済の混乱が起こっていましたが、一部にはバブル経済の幻想もあり、政府はケインズ経済学を持ち出して、政府の財政金融施策でソフトランディングができると考えました。その切り札を、投資額の3倍の経済波及効果を持っている住宅政策に突破口を求めました。

 政府が考案した住宅金融公庫に実施させた「ゆとり償還」(年収の8倍もの融資を行い、当初の5年間は金利のみの償還を傾斜償還で行い、6年目から元金を返済させる方式)はその代表的な施策でした。


 その頃の住宅価格は個人の年収の8-10倍にもなっていました。住宅を購入させることは個人が巨額な住宅投資を行うことを意味しています。
 そこでとられた「ゆとり償還」という政府に金融機関住宅金融公庫が採った政策は、明らかに返済できないローンを組ませてそれで景気を回復させようとするものでした。騙されたローンを組んだ国民は、返済不能で破綻しました。

経済の単純な理屈を無視した「国民を犠牲にした景気対策」 

 住宅産業界は日本経済のバブルが崩壊した後も政府の住宅政策により、しばらく潤っていて、バブル崩壊の影響がないようにさえ見えました。しかし、6年目を迎える前に、ローン返済不能事故が多数発生しました。
 そこにはハウスメーカーの住宅販売と金融機関の経営を優先することが住宅政策上優先され、消費者は巨額な借金をして、生涯かけて借金を支払うために働く犠牲者でしかなくなっていました。

 「住宅投資による3倍の経済効果」は、国民の支払い能力に見合ったローンを行うならば、その資金は回転します。しかし、返済不能のローンを組ませて住宅を購入させ、破産に追い込めば景気刺激の3倍の波及効果は生まれません。国民は景気刺激の犠牲にされたのでした。
 誤ったケインズ経済学が住宅政策を使って行われ、住宅購入者のローン返済能力を逸脱した融資にあったことを認識せず、住宅産業政策にあると勘違いされたため、住宅産業政策はそれ以降の経済政策から取り残されています。

 バブル経済が崩壊し、国民はバブル崩壊後の倒産が相次ぎ、不良債権処理が国家経済の中心問題になり、その処理に向かって、国民は「不毛の20年」に脅かされてきました。景気刺激は総ての政策に優先する公共性の高い事業と位置付けられました。

「アベノミックス」に繫がる小泉・竹中内閣の経済政策

 小泉・竹中内閣の時代に実施された政府の住宅・建築・都市政策は、既存の都市空間を既存の秩序を破壊する形で、既存の法定都市計画を変えないで、巨大な土地利用を割り込ませ景気刺激を図ろうとするものでした。

 既存の都市計画法と建築基準法による規制は、経済活動を不当に規制する「悪」であるという「ドグマ」をでっち上げ、その上で、規制緩和という大義名分を付け都市再生産業政策を強行しました。

 そのうえで、既存の規制の内容の存在理由に議論を差し挟ませないで、高地価に見合う土地利用を妨害する規制は「悪」であるから、規制緩和の名の下に規制を解除することが「正義」(公共性が高い)である考え方を社会に押し付けました。

(NPO法人 住宅生産生研究会 理事長 戸谷 英世) 

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コウノトリが問いかけるもの


国特別天然記念物コウノトリが,今年9月29日,
上田市の姉妹都市・兵庫県豊岡市(出石町)から上田市塩田平の溜池に舞い降りました。

1706年に上田藩主の仙石政明が出石城にお国替えになって以来,
307年ぶりの里帰りだと,地元の人々は驚き喜んでいます。

松枯れ防止運動で活動しているヤマンバの会事務局長村山隆氏が,
この奇跡のできごとを東信ジャーナルに投稿しました。

村山さまからいただいたメール添付の記事を読んで感動致しました。
すばらしいので,転載させて頂きました。

まず,メールの挨拶文を,
続いて投稿の文章を,上,中,下の順序で掲載いたします。

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関係のある皆々様方へ

 拝啓 日頃、お世話になっております。地域に依拠して生活しておりますと、しばしばドラマティクな出来事に見舞われることがあります。今回の事象は考えれば考えるほどに奇跡的だと思えてくるのです。
 そんな「件」を地元の新聞社に投稿し、全文掲載されましたのでお気軽にお目通し下さい。・・・久々に執筆中も胸が高鳴ってきました。こんな経験はそうあるものではないと自分自身で思いました。まあ、自由にお読み下さい。

 地元ではこの話題でもちきり、その中でこの文章は読まれて、少なくない感想が私にも届いております。上田市長が兵庫県豊岡市でのお祭りに招待され、「写真」と「掲載文」を持参するとの連絡が市役所から入りました。何はともあれ、良いことが広がることは嬉しい限りです。この事件は、私たちの「環境世紀の行く末」を暗示しているようです。
                             敬具

     2013年10月30日(水)午後 信州上田市塩田平住民 村山 隆

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姉妹都市・兵庫県豊岡市(出石町)から上田市に飛来
コウノトリが問いかけるもの
ヤマンバの会事務局長 村山 隆

【上】上田藩からお国替えの仙石氏が保護 307年ぶりの回帰

 何もかも閉塞感のある時代状況の中、国特別天然記念物のコウノトリ1羽が上田市に飛来した事実を知り、目の前に光が射し込めたように感じました。兵庫県豊岡市から遥か何百キロ、幾多の山河を超えて信州上田に辿り着いた軌跡に思いをめぐらせ、私は「良くぞ、御無事で舞い降りて下された!」と感慨無量になりました。
 一昨年5月に巣立った雌鳥は、今年9月14日頃に豊岡を飛び立ち、29日に到着したらしいので、約半月かけての飛翔旅でした。おりも折、「姉妹都市」の信州上田の地に舞い降りたわけですから、これはもう奇跡だと思わざるを得ません。
神戸観光壁紙写真集より

 姉妹都市・豊岡市(出石町)との因縁は、宝永3年(1706)に上田藩主の仙石政明が但馬国出石城にお国替えになり、出石藩主の松平忠周が上田城に入封したことに始まります。この際に交替・交流が様々なされましたが、その代表格の「出石そば」は、信州上田の蕎麦職人が伝えた技法として広く知られています。

 だが、実はそればかりではないのです!! 今や世界に注目されている『コウノトリと共生する豊岡市の野生復帰への挑戦』のルーツの所に、信州上田から転勤した仙石様が深く関与していたのです。私はこの事情を6年前の第32回「地域と教育の会」兵庫但馬大会(2007年夏)で知って非常に驚きました。日本の中で、何故に「コウノトリ保護運動」が兵庫県豊岡市で興ったのか納得できたのです。

 信州上田から但馬の出石に移った仙石様はコウノトリの多さに驚いたはずです。この鳥は吉兆を表わしますが、当時は百姓から田植え後の苗を踏み荒らす「害鳥」として嫌われていたようなのです。
 記録によると延享元年(1744)、三代藩主の仙石政振(まさとき)公がコウノトリを捕獲し家臣たちに振舞ったとあります(『仙石家譜』)。また、天保7年(1836)の『御用部屋日記』には出石藩主がコウノトリを飼育していたとの記述があります。
 更に、七代藩主の仙石久利(ひさとし)公は、藩内の桜尾山に営巣するコウノトリを瑞鳥と喜び、「鶴山」と名付け禁猟区にして保護を加えました。

 この仙石様のコウノトリ保護政策が、それ以後も継承され、後々には日露戦争の勝利と相まって、繁殖は吉兆であるとする「瑞鳥ブーム」(明治37)が巻き起こりました。そして大正10(1921)に、繁殖地の出石「鶴山」が名勝天然記念物に指定されるに至りました。
 この様に豊岡のコウノトリ保護の大本に歴代の仙石様の思い入れがありますので、今度の飛来は将に「里帰り」でした。これは又、307年ぶりの「回帰」だとも言えます。

【中】塩田平の溜め池の価値を再認識

 コウノトリが舞い降りたのが塩田平の溜め池(「北の入池」と「舌喰池」)でした。きっと、餌が豊富で安心できる場所だったのでしょう。降下した「北の入池」の直ぐ北東に「名勝・鴻の巣」があるので偶然とは思えません。
 しかも、「第1回信州うえだ塩田平ため池フェスティバル」(714,15)が成功裏に終えた後に会場であった「舌喰池」に飛来したのですから極めて象徴的です。飛来コウノトリは「塩田平の溜め池の価値」を尚一層、私たちに教えてくれました。
神戸観光壁紙写真集より

 恐らく「近代農法」以前の塩田平にはコウノトリが頻繁に飛来し、村人たちと共存していたはずです。私宅の裏山の下之郷東山には「鶴の沢」と愛称される谷さえあるからです。
 今、私は鮮明な記憶があります! それは55年前の小学生の時分、下校途中に唐臼山の松の頂に大きな白い鳥が止まっているのを目撃。近づくと、ゆったりと大きな羽を広げて上空に逃げ去りました。翼の先端が黒かったので「何だ、鶴じゃないのか」と失望した覚えがあります。あれはどうも、紛れもないコウノトリだったと思うのです。
 日本野鳥の会の方は、「ここ30年、上田市でコウノトリが確認されていない!」と言いますので、それ以前には度々飛来し、私が目撃した鳥はコウノトリの可能性が高いのです。
 因みに、但馬地方ではコウノトリ()をツル()と呼ぶのが一般的で、全国的にも混同されている例が多いのだそうです。
 余りに蓋然性の高い今回の飛来は、私たち信州上田にどんな「赤児」を運んで来たのでしょうか?この事件を契機にして、改めて『自然と共生した地域づくり』を考えた人は、私だけではないと思います。
 何と言っても塩田平の溜め池に舞い降りたので、まだまだ地域の「自然」が健在であることを物語っています。ですから、もうこれ以上、「里山景観」を破壊する愚挙を戒めたいものです。
 全国的に注目された「予防原則」を貫いて、里山への空中散布を中止させた上田市行政の英断・快挙は、コウノトリの飛来を促したようで継続させたい施策です。

【下】近代農法見直し「有機の郷 塩田平」へ

 ここで私は、コウノトリ飛来に触発されて若干の提言をしてみます。結論を言えば、『コウノトリが常時飛来し、生息可能な地域づくり』を目標に置くということです。こういう自然が豊かで、コウノトリと共に生きられる社会は、私たちにとっても安全・充実した生活が永続的に保障される地域でもあるのです。
神戸観光壁紙写真集より

 具体的には、《コウノトリ飛来可能な有機の郷・信州上田塩田平》を掲げたいのです。この為には、必然的に「近代農法」の見直しが問われ、地域に根ざした新たな創造的仕組みづくりが必要です。
 私は、最近の塩田平における有機農業への関心の高まりや、熱心な有機農民の存在などから、諸条件は既に備わっていると確信します。

 それに立脚して、自然にやさしい「農法」については創意工夫が必要ですが、先発地「豊岡市の地域づくり」を謙虚に学ぶことから創めたらと思います。それが姉妹都市との真の友好・連携であり、コウノトリが信州上田に運んで来た「赤児」なのだと思います。
 最後に俄かには信じられない事実を紹介したいと思います。私たち「ヤマンバの会」は今夏、「地域と教育の会」と共催で、『地域づくりと教育を考える信州上田大会』を地元の方々の御援助を頂き企画・成功させました。

 この民間教育研究団体の前代表の森垣修先生は豊岡市の方で、地域教育で全国的に高名な教育者です。先生は信州上田大会を気に掛けておられましたが、昨年に惜しくも旅立たれました。私には、その故森垣先生の魂がコウノトリに乗って、上田大会を見届けに訪れたのではないかと思えてならないのです。

 豊岡を飛び立ったのは9月14日で、それは丁度、大会初日でした。そんな偶然の重なり合いを知るにつけ、これは必然だと思えてくるのです。
 地域と教育の会が目指す「自然と人間、人間と人間のあるべき関係」を求めて、足元で真摯に実践することを誓って筆を置きます。

(「地域と教育の会」共同代表/20131010)

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2013年10月7日月曜日

松枯れ防除の農薬空中散布の怪!

 今春結成された「長野県空中散布廃止連絡協議会」の副会長村山隆様が,表題の問題を糺すべく同協議会を発足させ,長野県に対して提出した「申し入れ書」を作成した理由と経過について詳細に記した『まほろばニュース』を公開されました。

 私もメール添付で頂きました。説得力のある内容です。この活動は,地域から日本をより良い民主主義社会に変えていく運動の一つと感じています。
 この運動を広めるべきと思っていますので,頂いたメールの挨拶文をご紹介し,続い『まほろばニュース』全文を掲載致します。

 皆様からも是非広めてください。

 実は,2012年2月にも下記の記事をこのブログに掲載しております。
 ご参考にして下さい。



<メールの挨拶文>

連携する皆様方へ
 日頃お世話になっております。
 今、長野県で取り組んでいる里山への「松枯れ農薬空中散布問題」についての報告書を書きました。「信州の教育と自治研究所」という団体から依頼されて、現状を本質的に分析して執筆しました(2回にわたって連載されましたので、公開いたします)。
 この本質は県下で殆ど明らかになってはおりません。県議会やマスコミも動きが鈍いです。でも少しづつ動きを示し始めました。やはり、土台の足元の所から動きを創ることが決定的に大切だと思っております。EUの動向や、中央のグループとも連携を取りつつ足元に依拠して対応する。・・・言うはやさしく、なかなか困難ですが、「事実と道理」こそが私たちの味方です。この年になって、しきりに大学時代に受けた「講義」を思い出します。あの当時の大学人は発言していましたよね! ベトナムへの枯葉剤散布に抗議していた先生たちの姿を想起しています。そんな思いを秘めながら執筆したものです。お目通し下さい。
 様々な御批判があって当然、自由に論争できる社会が健全です。排除・否定されたり、抑圧されたりの社会はごめんです! もしも内容的に共感されましたら、周囲に自由に広めて下さい。同質の問題は身近な足元に沢山ありそうです。そこから始めるのです。草々
 2013・10・6午前 信州上田塩田平住民 村山隆

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『まほろば ニュース』(信州の教育と自治研究所)原稿(2013・7・28)


松枯れ防除の農薬空中散布をめぐる諸問題
空散廃止連絡協議会の結成と申し入れ行動

長野県空中散布廃止連絡協議会 
 副会長 村山 隆 

 1.はじめに

 今年は県下の松枯れが激化しています。私の裏山(上田市下之郷東山)では空中散布を中止してもずっと被害が横ばい(爆発的被害は未発生)でしたが、今年は酷い状態です。一方、4年ぶりで空散を再開した坂城町岩井堂山の松枯れは尚一層、酷くなっています。また、空散を継続して来た千曲市でも激化しています。つまり《空中散布を実施しても、しなくても、松は枯れて行く!?》のです。

 こういう現象を前にして、今年5月26日(日)午後、県下各地で農薬空中散布に反対している団体が一堂に集まって、「長野県空中散布廃止連絡協議会」(河原田和夫会長)を結成しました。そして6月12日(水)午後、県当局に対して「申し入れ行動」を行いました。

ここでは松枯れ防除の農薬空中散布をめぐる諸問題と最近の県内の動きを報告します。

2.長野県空中散布廃止連絡協議会の発足

 今までも空散実施に対応して反対運動が発生しましたが、その持続的活動は極めて難しいのが常です。それは課題の大きさと共に、必ず地域分断・抗争が発生し、「ものを言えない状況」になることが大きく影響しています。更に敢えて言えば、運動側の「組織づくり」が意識的に追求されなかった嫌いもあるのです。だから当初に勢いのあった団体が、何時の間にか自然消滅して持続できないのです。

 でも県内では、困難の中でも地域に依拠して声を上げている複数の団体がありますので、これらの有機的連携が期待されていました。

 今年の1月21日(月)午後、空散に危機感を持った県内8団体が連名で、知事宛に「要望書」を提出。県側の姿勢があまりに強固だったこと(応対は非常にソフトだが全く妥協せず)も反映し、数回の対策会議を持って5月26日(日)午後、『長野県空中散布廃止連絡協議会』を結成しました。

 特徴は「会則」を激論の中で練り直し、一字一句を皆で作成したことです。各団体には独自の結成根拠があります。それらの違いを超えて、各団体の一致点・合意事項を瞳のように大切にしました。それは、「県内において地域に根ざして自主的に活動している各種団体・個人の各々の独自性を尊重し、空中散布廃止の一点で結集し、連携・協力共同して実現させる」(会則第二条)に反映させました。

 所謂、アリバイ的な組織では無く、内実の伴った「組織づくり」を意識的に重視し、堂々と活動することを確認し合いました。

非常に苦慮したのは代表の選出です。幸いにも耳鼻科医師の河原田和夫先生が会長をお引受け下さり、会が正式に産声を上げることが出来ました。私たち会は「全ての生命を守る実践」ですので、決して妥協できない宿命を背負った市民団体だと思っています。

3.総合的視点で作成した『申し入れ書』

 結成後、空散実施の直前でしたので「要望書」とはせずに、私たちの見解を堂々と主張した『申し入れ書』にしました。数度の論議の中で、留意したのは次の諸点でした。

①県が検討部会を作って時間をかけて結論付けた「報告書」(平成23年11月)でしたので、これと噛み合った批判を展開させました。

②空中散布批判を総合的視点(防除効果問題、人間健康問題、自然生態系への影響、推進行政の進め方)で全面的に行いました。

③県は全国動向に深く依存していますから、先ずは全国的批判を行った上で「報告書」の分析を実施しました。

④以上を踏まえて、どんなに困難でも原則的な「申し入れ事項」を組み立てました。

⑤併せ、強行実施された場合での「要望事項」も付け加えました。

⑥それに、空中散布を廃止した際の「代替防除方法」についても具体的に提言しました。

従来の空散反対運動は健康被害問題が主で、全面的分析は為されず(防除効果問題が欠落)、住民分断・対立を招く嫌いがありました。これでは、「健康被害を防ぐために、松は枯れても良いのか?」「松枯れを防ぐために、健康を犠牲にしても良いのか?」との二律背反的思考に陥ってしまうのです。これは、《空中散布は防除効果が確実!》という大前提で成立している矛盾なのです。これを打開するためには防除効果問題の本質を共有することが絶対に必要です。

4.『最終報告書』(県検討部会)の問題点

 先ず、全国的にも覆い隠されている「空散問題の原点」を明らかにしました。36年前に制定された「松くい虫防除特別措置法」(S52・4・18)の5カ月後に、提案資料の9例中の全資料に【誤記・捏造・改ざん・隠蔽・操作】が発覚(衆議院第81国会農林水産委員会S52・9・12) して農林官僚が処分された事件を告発しました。だが不思議にも法律は無傷で継続し、その中核が現在まで引継がれているのです。何故か、この事実は社会的に不問にされて松枯れ農薬空中散布が罷り通って来ました。

 次に「報告書」の問題点を列記してみます。

1つ、検討部会が情報公開を謳って「民主的」に運営されたと思いがちですが、内実はそれに程遠いものでした。例えば、検討委員全9名のうち7名は県職関係者、他2名だけが県外の推進派研究者でした。また、座長宛に提出した署名入りの市民団体の「公開質問状」に対しては速やかに回答されたものの、各委員には渡らずに事務局独断で回答されました。これは各委員の「審議する権利」が奪われたということであり、事務当局の脚本の上で踊った検討部会であった証左です。

結論的に言えば、推進派研究者だけでしたので「落とし所」は初めから決まっていました。私たちは「空散のあり方検討」ですから、その是非を検討するものと信じていましたが、その実態は本質論議を避け、「空散のやり方」に変質していました。

2つ、残念ながら全国的な空散の捏造体質を継承していました。『中間報告書』に引用された推進団体の「効果写真」(茨城県旭村)は伐倒駆除が入った不適切写真。また、長崎県総合農林業試験場の「効果試験データ」には2カ所の誤記。それと伐倒駆除の加わったデータなのに、それを隠して空散効果としたものでした。これを発見・指摘した所、理由を言わずに削除し、差し替えたのが最終報告書の「岩井堂山の効果比較写真」でした。

現地調査をすれば判りますが、坂城町側(3年間空散中止)は伐倒駆除が為されず、千曲市側(空散継続)は伐倒駆除が完璧の下での比較写真でした。また、千曲市側は空散未実施の山や広葉樹林が多く、該当する空散区は写真全景の2割程度でした。更に、山の裏(北側・千曲市)と表(南側・坂城町)の関係であって、環境条件が違い過ぎ、単純比較は科学的ではありません。それを、紅葉の発現しない時期に撮影した比較写真で説明しているのですから不適当です。だから当然に、この写真は撤回して再検討すべきが筋です。

また、引用した「図表効果データ」も試験機関と調査場所・調査日の記載の無い代物で、これまた伐倒駆除も実施されている資料です。何故ならば、「空散は予防効果が高く、効率的方法である。但し、空散単独では完全な防除効果は発揮できないため、適期の伐倒駆除を組み合わせることが必要である」(第5回部会資料)と明言しているからです。全国的な推進側の常識とは、農薬空中散布と伐倒駆除が併用されても、【空散区】の記述(伐倒駆除を隠蔽)で通用しているのです。これは、世間の常識とは余りにも懸け離れています。

一般的に自明として通用している空散の効果データは極めて薄弱です。事実、私たちの公開質問状への回答では「現場における予防散布の効果は歴然としているが、それ故に解析できるデータとして残っているものが少ない。すなわち実験的に必要な対照区のデータがない事例が殆どである」(H23・7・7)と告白しているのです。

3つ、人間の健康問題については「健康への影響の有無や可能性などを評価し解明することは、現時点では十分な科学的知見がないため難しいが、影響の可能性を否定することはできないと考えられる」(報告書)と曖昧でした。要は、《健康被害は存在するが、科学的証明は難しい!》という見解です。そして因果関係が不明だから空中散布を容認する姿勢を保持し、5年前に空散を中止した上田市行政の如くに住民の命を守る観点での「予防原則」に立てない前近代的な弱さがあります。

4つ、自然生態系に対する影響についても各地方の事故実例が論議されておらず、国の基準通りに踏襲すれば安全だとの認識で貫かれています。最近話題になっている《虫が少ない、鳥が減った!》等々の自然破壊が全く論議されていません。

5つ、問題は空中散布実施の可否判断を市町村に委ねたことです。一見、県は市町村自治を尊重したかに見えますが、其の実、責任逃れであって不見識です。報告書では「空中散布は他の方法に代替えすることができない有効な予防策である」と断定・規定しておきながら、実施の可否判断を配下の市町村に委ねる責任回避が見て取れます。事実、この『最終報告書』が最大限に活用されて、坂城町では再開 (昨年、日本初のネオニコ系農薬7.5倍高濃度散布) に至り、松本市四賀地区で新たに実施(無人ヘリ)されようしているのです。

5.「申入れ事項」の内容

 上記の問題点に基づいて下記の申し入れを作成しました。如何に現実が困難であっても、飽くまで「原則」を堅持しました。そして又、強行実施の際での建設的提言も行いました。

一.県が委嘱した「有人ヘリ松くい虫防除検討部会」の『最終報告書』には、決定的問題点が多々ありますので、この報告書を凍結・破棄して下さい。

二.従って、この『報告書』に基づいて実施される予定の市町村に対しては、空中散布を保留・中止するように指導・通達して下さい。

三.もしも強行実施される場合については、下記の調査を必ず行って下さい。

○空散の客観的防除効果の調査。特に害虫(マツノマダラカミキリムシ)密度比較調査 ○人間健康への被害検査○自然生態系への影響調査 ○飛散・気中濃度、水質検査、土壌調査などの物理化学的調査など

四.空散防除の代替方法である、松林を守る「総合的防除方法」を確立・指導して下さい。

先ずは松枯れの正確な診断を実施してから「防除戦略」を組み立てて下さい。そして、空中散布防除に替わる防除方法【抵抗性品種・活性剤・竹炭・竹酢液・土壌改良剤、伐倒駆除、樹幹注入、アカゲラ誘致用巣箱の設置、樹種転換、里山の管理保全など】を駆使した多面的指導を行って下さい。いずれにしろ、空散の有無に関係なく里山の松枯れは激化しますから、保全するための《松を守り・人間健康も守り・自然も守る》という真の「技術体系」が県民から切実に期待されています。この面での長野県林業総合センターの研究・開発の推進に大いに期待いたします。私たち市民団体としても、「里山保全の立場」で行政の皆様と共に、協働したいと希望しております。

五.「最終報告書」のおわりで締め括られている「新たに得られる知見を積極的に活用し、今後とも引き続き松くい虫防除のための農薬の空中散布のあり方の検討・見直しを行っていくことが必要である」に忠実に則って、歴史的検証に耐え得る見直し策『松枯れ農薬空中散布の廃止』を速やかに実行して下さい。

6.県への「申し入れ行動」と反響など

 県内の空散実施を目前にした6月12日(水)午後、私たちは県庁林務部長室に出向いて初の「申し入れ行動」を行いました。河原田和夫会長ほか10名(長野市・千曲市・坂城町・上田市・松本市四賀の団体)で、絵入の表紙を付けた『松枯れ防除の空中散布(有人・無人)廃止に関する申し入れ書』を知事宛に提出。県側からは林務部長ほか8名が応対。約70分間のやりとりが行われました。

 県側の対応は極めて腰が低く柔軟でしたが、こと内容に関しては予想通り、一切の妥協はしませんでした。「国の基準に沿って、より安全性に配慮しているので問題はない!」の一点張りでした。部長は「空散の実施は県が決めたのではなく、各自治体が独自に判断して行っているのです!」と先制発言。透かさず、「では被害が発生した場合の責任主体は市町村の首長ですか? 県は責任が無いのですか?」と質問するも、逃げに終始して明言を避けました。県が『報告書=マニュアル』を出しているのに、県職員の責任逃れ体質を垣間見ました。このやりとりの中で、化学物質過敏症の方が切実に訴えて援護してくれました。

 その後、県庁内記者クラブにおいて初の会見を行いました。信毎、毎日、中日・東京新聞、信越放送、長野放送、テレビ信州の各局が取材。各紙が報道しましたが、とりわけ信毎は独自取材を行って「ミツバチ大量死 県内9件 農薬影響の可能性」を掲載し、コラム斜面に「立ち止まる勇気が必要」(6・19)とネオニコ系農薬に警鐘を鳴らしました。また、読者建設標にも「松くい虫の被害拡大防止を願う」「ミツバチ大量死 農薬の影響心配」と紹介しました。更に、テレビ各局は空中散布問題の特集報道を行いました。この背景には今年5月、EUがネオニコ系農薬3種類を使用禁止した国際動向と、日本の反農薬運動の高まりが反映したようです。

 私たちの細やかな実践も、やっと県内世論を盛上げる端緒を築いたようです。しかしながら今年6月、県内9市町村において有人・無人へりによる空中散布が強行されました。

7.「農薬ムラ」に抗する持続的組織を!

 冷静に考えて見ましょう。捏造された諸資料に基づく法律によって実施された松枯れ空中散布が、40年余りも続いているのです。しかも、防除効果は不確か、健康に被害、自然生態系に看過できない影響を及ぼすなど、全く有益性がありません。将に「松くい虫」ならぬ「金喰い虫」ですが、それなのにどうして続いているのでしょうか? 

これには根深い構造的体質があるからです。それは原子力ムラと同質の≪農薬ムラ構造≫です。二例をあげれば立ち所に理解可能です。一つ、空散農薬のスミチオン(有機燐剤MEP)は住友化学の独自製品で、現在の日経連の第3代会長・米倉弘昌氏は住化の会長出身です。二つ、空中散布を全て取り仕切っているのは「農林水産航空協会」なる法人です。これは、農薬企業と航空会社と天下り官僚が組織した空散のために設立した法人です。

 国会(議員)が法律で空散企業を保証(補助金)してやり、それにお墨付き(「科学的知見」)を与えた試験機関と御用学者たちの存在、補助金・利益に群がる諸集団、その中には巨体な農協組織もありますから末端まで貫徹します。これら全てに関与・暗躍する官僚たちの役割など、残念ながらマスコミ界もチェック機能を果たさずに、作られた「空散神話」を垂れ流しました。こういう「空散翼賛体制」が続きましたから、私たちの運動は茨の道でした。様々な圧力に曝されて、空散反対のまともな声が潰された歴史でもありました。

 こういう厳しい状況下で活動する宿命が私たちにはありますから、腹の座った自覚が問われます。それに推進側は、あらゆる手を駆使(科学的装いを凝らす)して実に巧妙に進めますから、その虚実を見破る点検力が必要です。相手側との「科学論争」においても優位に立つ見識が大切になります。

 地域に依拠しながらも、日本と世界の動向を把握して実践する質的に高い市民組織の形成が要請されます。このような市民団体は、組織労働者の経験・援助・協力が不可欠です。

 何はともあれ、こういうレベルの高い市民組織を、目的意識的に持続させる課題があります。私たちは、《負けても勝てるが、逃げては勝てない!》ことを肝に銘じたいものです。

8.おわりに

 どんなに強大な力(「農薬ムラ」)でも、アキレス腱があります。それは、事実と道理に背いているのが松枯れ農薬空中散布だという冷厳なる事実だからです。それ故に、科学の目で、足元の松枯れ現象を「定点観測」したら、必ず具体によって因果が実証されます。何よりも私たちは、お仕着せの理屈ではなく、足元の事実に則った納得のいく道理を大切にしたいものです。そうすれば、空散効果のまやかし問題が暴き出されるはずです。

 締め括りに当たり、昨年に空散を中止させた出雲市の例を紹介します。検討会議が大論議の末に「空散に替わる防除方法」を決めました。23名の委員で、賛否両方の市民が加わって喧々諤々の自由闊達な討論で決定したと言います。私が注目したのは、副会長の元農林水産省森林総合研究所九州支所長保護部長の吉田成章氏の発言でした。氏は長野県の研修会で指導する等、松枯れ防止に職務をかけ、全精力を傾けて空中散布を推進した当事者です。その氏が言うに、「少し空中散布を過信し過ぎです。空散のみでゼロになった所は一例もありません」とか、「単に延命を図るだけで、はっきり言って、どうせ守りきれません」と明言しているのです。また「保存すべき松林の周辺松を全部伐採しなければ撲滅は不可能」(要約)とまで発言し、空散中止の流れを決定づけたそうです。

 私たちの空散廃止運動は、生きとし生ける物たちの生命を守る取り組みですので、地域と日本と地球の現在と未来を守る大義があります。ですから、決して妥協できない性格の運動なのです。今は少数派でも、歴史の審判は必ずや、私たち自覚的市民団体の側に勝利の女神の微笑を与えてくださるものと、固く信じて疑いません。

          (里山の枯死松を偲び脱稿/2013・7・28)


参考写真:県林務部長に「申し入れ書」を手渡す河原田和夫会長
         平成25年6月12日午後 県庁林務部長室にて




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2013年10月5日土曜日

発達障害の要因は,何らかの環境要因


 日本在来種みつばちの会の御園様から,子供の脳の障害に関する情報を頂きましたので紹介させて頂きます。「多くの人に紹介してください。」を添え書きもありました。

 読みましたが,正直なところ専門的な部分は理解しきれませんでしたが,世界の専門機関や学者,そして欧米諸国の動きや対応から推察するなら,きっとこの考え方は正しいと感じています。

 長い論文ですが素人にも判るように書かれています。問題の流れを掴むことはできると思います。
 残念ながら,原文はpdfファイルなので,このブログには掲載も添付もできませんので,原文をご所望の方は末尾にある事務局のアドレスまでお知らせください。メールに添付してお送り致します。

 書き出し部分と要所を抜粋します。
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 日米欧における自閉症,ADHD(多動症)LD(学習障害)など発達障害児の増加は著しく,遺伝要因でなく何らかの環境要因が増加の主な原因であることが確定的になってきた。
 発症の基本メカニズムは共通で,特定の脳高次機能に対応する機能神経回路の不全と考えられ,どの神経回路(シナプス)形成に異常がおこったかによって,症状が決まる。

 ・・・ 2012 年,米国小児科学会は声明を公表し,米国政府や社会に「発達障害や脳腫瘍など,農薬による子どもの健康被害」を警告した。日本における,単位面積あたりの農薬の使用量は世界で一二を争う量であり,近年の発達障害児や引きこもり,切れやすい子どもの増加とほぼ並行している。
 『沈黙の春』から 50 年,新しい農薬の被害と農薬対策について,仏政府が「農薬によるパーキンソン病発症を農業従事者の職業病と認定した」,「 EC ではネオニコチノイドの暫定禁止を決定した」など,最近の情報もまとめる。

 ・・・ 2012 年,米国小児科学会が正式に「子どもへの農薬曝露による発達障害や脳腫瘍のリスク」を警告したように,環境化学物質の中でも脳神経系を直接標的にしている農薬は,特に注意が必要と考える。

・・・汚染された母体から,ほとんどの環境化学物質が胎盤を通過し胎児へ,母乳を通じて乳児へ移行しやすいことは既に実証されており,その上,子どもの脳の血液脳関門は未成熟なので,血中の毒物は簡単に発達中の脳に侵入してしまう。
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 事務局の友人の話しですが,アトピーで長年苦しんでいた友人の娘が子供を産んだら直ってしまったそうです。何人もその事例を見ているので確かだと話していました。
 蜜蜂の大量死もネオニコチノイド系農薬の影響が疑われており,早い対応が求められていると思います。

事務局メールアドレス
takasuke@mitsuyakogyo.co.jp

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