2013年10月30日水曜日

日本の住宅政策変遷小史

 NPO法人信州まちづくり研究会では,過去に数回,欧米の”まちづくり”,サステイナブル・コミュニティ,エコヴィレッジ,コウハウジング等を視察致しました。

 その結果判ってきたことは,日本の住宅政策と”まちづくり”政策は,非常に残念ながら,根本的に大きな間違いをしていることでした。

 ここでご紹介するNPO法人住宅生産性研究会(理事長:戸谷英世)さんの記述はその現実をよく捉えていると思いますので,掲載させて頂きました。

 HICPMメールマガジン第526号(平成25年9月23日)から転載致しました。
(原文は,住宅生産性研究会の下記ホームページのメールマガジン・バックナンバーから読むことができます。
 このブログはそのコピーです。 http://www.hicpm.com/ )

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皆さんこんにちは

 工務店の仕事は住宅金融はもとより、住宅のデザイン、機能、性能という住宅の効用に関するわが国の住宅政策に大きく関係しています。それは日本国憲法により、国家が国民に健康で文化的な生活を保障する社会契約があるからです。
 その契約に基づく住宅政策は固定的なものではなく、経済社会環境を反映して変化しています。工務店の経営者はその経営のため、国の住宅政策の流れを知っておく必要があります。そこで今回は、「日本の住宅政策変遷小史」を紹介します。

「住宅難の解消」から経済政策に目的が変化した住宅政策 

 現在、国民の住居費負担や、供給される住宅の基準の問題を国の住宅政策の基本問題と考える人はほとんどいません。しかし、歴史的には国民の住居費負担の問題が、住宅問題の基本であることは今も変わっていません。
 戦後の日本の住宅政策は、「住宅難世帯の解消」という量的不足の解消を政策の基本に置き、「夫婦を単位に世帯を形成する」とした新民法に合わせ、「1世帯1住宅」を基本に、国民の住居費負担の範囲で住宅を供給する公営住宅制度からから始まりました。


 戦後の日本経済は、米国の「極東の自由主義社会」の安全の実現のため、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の軍需を背景に、日本は米軍の兵站基地となり、重厚長大型産業が再生しました。
 住宅は産業政策を支援するため、地方公共団体による公営住宅、地方公共団体の行政区域を越えた通勤通学に応える公団住宅、公庫住宅に合わせて、公庫、公団による社宅(特定分譲住宅や産業労働者住宅)の建設として実施されました。
 いずれも政府が「シュワーベの法則」を我が国の条件に置き換え、家賃と住宅規模を入居者の住居費負担能力との関係で決定しました。

「1世帯1住宅」から「1人1室」へ

 朝鮮戦争特需を梃子に日本経済は復興し、60年日米安全保障条約の改定で、日米同盟は軍事と経済面での対等の相補関係になりました。
 所得倍増計画から列島改造計画に、さらには、全国総合開発により道路網を国土全体に建設し、経済は急成長しました。その過程で、都市改造土地区画整理事業により、道路と一体的に宅地を開発し住宅建設を促進しました。
 順調な宅地供給も相俟って、住宅統計上、世帯総数を上回る住宅総戸数となり、量的供給過剰状態がつくられました。

 住宅政策は「居住水準」の向上を3本の公共住宅(公営住宅、公庫住宅、公団住宅)で推進する住宅建設計画法(1965年)の時代に踏み出しました。「一世帯一住宅」から、「一人一室」に住宅の目標は引き上げられました。
 しかし、住居水準の引き上げは、政府の住宅政策によるというよりは、経済成長により、むしろ、若年世代の都市移動により世帯人数が減少したことと,新民法により大家族制が廃止され核家族化がすすめられたことと、出生率が低下した社会現象の結果でした。

財政(官僚)主導の住宅政策

 住宅建設計画法では、「量から質へ」という政策転換がとられ、あたかも政府の住宅政策により住宅難が解消されたかのように政府は説明し、御用学者は提灯を持ちました。確かに1968年には全国で、1973年にはすべての都道府県で住宅統計上も世帯総数を十分上回る住宅数が存在し、空き家が発生していました。

 政府はその政策の視点を「住宅難の解消」から「一世帯一住宅」へ、さらに「一人一室」へと居住者中心の政策が成果を実現したと説明しました。そしてそれ以後の住宅政策は、住宅産業を発展させることで、居住者のニーズに合わせて選択的に需要を発生させる住宅産業政策に転換しました。
 そのために政府が居住水準を主導して引き上げ、「居住水準以下の状態にある国民を、居住水準以上の住宅に住めるようにする方策」として、住宅政策上の住宅需要者には、政府(財政)主導の政府施策住宅(公営住宅、公団住宅、公庫住宅)で行うことになりました。

間違ったケインズ経済学の実践

 当時ケインズ経済学が産学官の経済を指導しており、米国の世界恐慌(1929年)からの復興をケインズの理論を実践して成功に導いたことが、日本の戦後復興はマルクス経済学ではだめで、ケインズ経済学によらなければならない風潮が広がっていました。

 米国からハーバード大学に学び名誉学位を授与された一橋大学の都留重人教授らケインズ主義者が帰国し、日本の経済学を転換しました。
 財政出動の呼び水に需要を創出する経済の良循環を形成するケインズ経済学が、日本では行財政が国家経済を引き回す社会主義的計画経済を正当化するように使われていました。

 この行政主導の住宅政策は、政府が住宅需要すべてを創出する住宅産業需要を丸抱えの政策でした。当然、官僚の住宅産業支配の利権の拡大となり、産・官・政・学で癒着した護送船団を形成することになりました。
 その後、公共住宅の予算獲得と予算配分の利権が政治家と官僚の利権と結びつき、腐敗の温床(護送船団)を形成することになりました。

「建て替え需要をつくるため」の「木造建築物20年の耐用年数」

 「居住水準の向上」政策の下で、住宅の「スクラップ・アンド・ビルド」が行われ、土地の高層高密度化が進められました。政府は、住宅の建て替えを促進するために住宅を償却資産とみなし、既存住宅の資産価値は残存価値であり、住宅は耐久消費財であると説明しました。

 まだ都市の住宅ストックは木造住宅が過半数を占めていた時代です。既存木造住宅は隙間風が入り断熱性能の低い住宅が大多数でした。
 木造住宅の寿命を長くするためには、隙間風を取り入れて木材に酸素を供給することが必要で、社寺仏閣も基本的に隙間風を取り入れることで長寿命を維持してきました。しかし、政府が既存住宅の価値は残存価値と言い切ったため、国民は政府の発言を信じ込まされました。

 多くの国民が金融機関に、既存住宅の資産評価を願い出ても、金融機関からは木造住宅は耐用年数は20年と言われ、見ても見ないでも同じで、建築後20年を経過した住宅は、取り壊し費用を考えれば、残存価値のない住宅といわれました。
 価値はないと言われることで、多くの木造家屋所有者は、政府の説明に騙されて、建て替えに踏ん切りを付け取り壊されました。

ハウスメーカーの需要創出のための住宅政策

 住宅生産の工業化を旗印に、ハウスメーカーの事業を拡大するために、健常な木造住宅を、単に、耐用年数が20年を経過したから償却し無価値になったと言って取り壊し、代わって、どこの国の文化を担っているのかわからない新しい流行を追ったデザインの住宅が建てられました。

 「居住水準の向上」という政策は、住宅統計上国民の居住水準を高めるためと説明されました。しかし、住宅政策の実体は優れた木造住宅資産を、単に、建築後20年以上経過しただけの理由で、建具の建付けや、隙間風を口実に、減価償却したと説明され取り壊し、都市の歴史文化を破壊しました。

 代わりに、新建材と新工法を導入した気密性の高いアルミサッシや防火性能が高い鋼製ドア、ステンレス流し、システムキチン、換気扇、熔化生地の衛生陶器、浴槽を取り込んだメーカーごとに違ったデザインの画一的なプレハブ住宅が、価値の高い住宅と説明され、建て替えられていきました。

 ハウスメーカーは既存住宅や他社と違う住宅は価値があると「差別化」し、街並み景観を破壊し、人びとに街への帰属意識を失わせてしまいました。その結果、ハウスメーカーを使った「文化大革命」が全国に吹き荒れました。

都市計画法の制定と都市再開発事業

 都市化は高度経済成長により急速に進み、都市に人口が集中し、それを受け止める形で、水道も電気もない木賃アパートや文化住宅が都市の基盤整備のない農地に無秩序に建てられました。
 道路、公園、下水道、電気、ガス、水道等のライフライン、教育施設が整備されていない都市に建築物が立つことを制限するため、1968年市街化区域と開発許可制度を柱とした都市計画法が制定されました。

 一方、既成市街地で低密度市街地では、地価の高騰を利用して、建て替えや都市再開発・都市再生事業で、スクラップ・アンド・ビルドが進められました。フローとしての住宅産業需要を拡大するために、良好な環境の住宅地にある貴重な木造住宅を、粗大塵同然に「土地の有効利用」の大義名分の下に取り壊していきまました。
 一方、全国総合開発計画が、ガソリン税を利用した全国道路整備事業として展開されました。道路整備事業は都市改造土地区画整理事業として宅地供給事業として展開されました。
 その結果のうち、山林、原野が戸建て住宅地として供給され、ハウスメーカーの事業の受け皿になっていきました。政府の住宅政策の最大の関心は、居住者の居住水準の向上から、住宅産業界の利潤追求と住宅投資、住宅投機に向かいました。

既存住宅取引を不可能にしたハウスメーカーの詐欺価格

 住宅政策は住宅を取得する国民の居住水準向上の政策から、公共住宅需要を利用した住宅産業育成政策に変質していきました。米国の工業生産住宅(OBT)を真似た日本の住宅産業政策は、米国でNAHBが危惧したとおり、地場の中小零細な組む公務店(ホームビルダー)を潰し、系列化していきました。

 ハウスメーカーは工場で生産性を上げて住宅を部品化して製造し、現場で短期に組み立てて得た利益の何倍もの費用を広告宣伝やモデルホームや営業マンの費用に掛け、それを販売価格で回収する方法をとりました。
 一般の工務店は生産性が低いため、同じ住宅を高くしか販売できませんでした。そこで、ハウスメーカーは住宅の市場価格に合わせて2倍の価格で販売しました。


 当然、営業経費で高額になった住宅はその価格の価値をもっていませんから、住宅は中古市場で過剰な営業経費分は評価されず、販売価格は半減します。住宅をもっている人は、損をすることを嫌って既存住宅販売は消滅状態になりました。
 既存住宅市場で取引されない住宅は、居住者とともに高齢者居住住宅となり、義務教育施設や商業施設を閉鎖に追い込む原因をつくり、結果として住宅を廃屋に追い込む原因になっています。
 政府の住宅政策はハウスメーカーの販売促進のための政策であったわけで、住宅購入者のことを考えてはいませんでした。

バブル経済下の住宅価格の高騰

 都市化を背景に、住宅産業のために大量の住宅が供給され市街化が急速度に進むと、地価は高騰しその地価を担保にした金融需要が拡大しました。
 おりしも、1986年「プラザ合意」後、1ドル240円の為替が1ドル120円に半減し、日本は世界の金融中枢になると騒がれ5000ヘクタールの商業床需要が生まれるという誤った予測に対応して日銀が率先した金融緩和が起こりました。

 金融を緩和が、東京が世界の金融中枢になるという不動産投資を生み、それが郊外から全国に向かう拡大再生産の循環が生まれ、都市開発が玉突き状態で郊外に向かって進行しました。やがて、不動産開発は都市から農村へ、やがて僻地の観光開発に向かいました。

 土地と株式とが相乗効果を発揮しあって高騰し、日本はバブル経済になりインフレが昂進しました。地価と株価と金利の上昇の中で、住宅価格が高騰しましたが、所得も給与外の資本収益が拡大し、実質所得が上昇しました。
 インフレで既存の住宅ローン残高が目減りし、既存のローン負担が軽減し、住宅の建て替えに踏み切れる環境が熟し、建て替え需要が拡大していきました。不動産価格高騰が拡大する環境下で、国民の住宅価格に関する感覚が狂っていきました。

ローン償還期限の延長による購入能力を逸脱した住宅販売の実現

 特に、政府は高額の不動産取引を推進するため、不動産担保の信用膨張を利用してローンの返済期間の延長により、短期的には「ローン痛」を軽減し、代わりに1生涯にわたり「ローン痛」を背負い込ますことで、国民の支払い能力を超えた住宅購買に走らせました。

 そのとき延長された返済期間が35年という長期ローンは世界中で日本だけです。日本で住宅政策と言われているものは、住宅産業界が販売を希望する高額な住宅を購入させるため、ローン返済期間を極限まで延長して、できるだけ多額の借金を背負わせるものでした。
 そして、景気を継続的に刺激する本末転倒した政策に変質してきました。バブル経済は企業経営の破綻に始まり、企業のリストラ、職員のリストラが進み、それが高額な住宅ローン返済不能事故の多発という形で現れました。

住宅金融公庫による「ゆとり償還」

 政府及び日銀によるバブル経済の制御が利かなくなったと三重野日銀総裁が判断し、一挙に金融引き締め政策を採りました。日銀による金融引き締めのハードランディングにより、経済バブルが崩壊しました。
 経済の混乱が起こっていましたが、一部にはバブル経済の幻想もあり、政府はケインズ経済学を持ち出して、政府の財政金融施策でソフトランディングができると考えました。その切り札を、投資額の3倍の経済波及効果を持っている住宅政策に突破口を求めました。

 政府が考案した住宅金融公庫に実施させた「ゆとり償還」(年収の8倍もの融資を行い、当初の5年間は金利のみの償還を傾斜償還で行い、6年目から元金を返済させる方式)はその代表的な施策でした。


 その頃の住宅価格は個人の年収の8-10倍にもなっていました。住宅を購入させることは個人が巨額な住宅投資を行うことを意味しています。
 そこでとられた「ゆとり償還」という政府に金融機関住宅金融公庫が採った政策は、明らかに返済できないローンを組ませてそれで景気を回復させようとするものでした。騙されたローンを組んだ国民は、返済不能で破綻しました。

経済の単純な理屈を無視した「国民を犠牲にした景気対策」 

 住宅産業界は日本経済のバブルが崩壊した後も政府の住宅政策により、しばらく潤っていて、バブル崩壊の影響がないようにさえ見えました。しかし、6年目を迎える前に、ローン返済不能事故が多数発生しました。
 そこにはハウスメーカーの住宅販売と金融機関の経営を優先することが住宅政策上優先され、消費者は巨額な借金をして、生涯かけて借金を支払うために働く犠牲者でしかなくなっていました。

 「住宅投資による3倍の経済効果」は、国民の支払い能力に見合ったローンを行うならば、その資金は回転します。しかし、返済不能のローンを組ませて住宅を購入させ、破産に追い込めば景気刺激の3倍の波及効果は生まれません。国民は景気刺激の犠牲にされたのでした。
 誤ったケインズ経済学が住宅政策を使って行われ、住宅購入者のローン返済能力を逸脱した融資にあったことを認識せず、住宅産業政策にあると勘違いされたため、住宅産業政策はそれ以降の経済政策から取り残されています。

 バブル経済が崩壊し、国民はバブル崩壊後の倒産が相次ぎ、不良債権処理が国家経済の中心問題になり、その処理に向かって、国民は「不毛の20年」に脅かされてきました。景気刺激は総ての政策に優先する公共性の高い事業と位置付けられました。

「アベノミックス」に繫がる小泉・竹中内閣の経済政策

 小泉・竹中内閣の時代に実施された政府の住宅・建築・都市政策は、既存の都市空間を既存の秩序を破壊する形で、既存の法定都市計画を変えないで、巨大な土地利用を割り込ませ景気刺激を図ろうとするものでした。

 既存の都市計画法と建築基準法による規制は、経済活動を不当に規制する「悪」であるという「ドグマ」をでっち上げ、その上で、規制緩和という大義名分を付け都市再生産業政策を強行しました。

 そのうえで、既存の規制の内容の存在理由に議論を差し挟ませないで、高地価に見合う土地利用を妨害する規制は「悪」であるから、規制緩和の名の下に規制を解除することが「正義」(公共性が高い)である考え方を社会に押し付けました。

(NPO法人 住宅生産生研究会 理事長 戸谷 英世) 

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