2015年4月9日木曜日

「究極の地方創生」はこれだ!

 日本経済新聞電子版平成27年3月23日号に、電子版5周年企画として、この記事が掲載されました。すばらしい記事なので、転載させて頂きました。

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住みやすい町、日本一 「究極の地方創生」はこれだ! 
~電子版5周年企画


 名古屋市に隣接する愛知県長久手市。人口5万人の一見何の変哲もないベッドタウンだが、「快適度」「子育てがしやすい」といった各種調査で「日本一」に輝き、今も人口流入が続いている。人口減によって、2040年には日本の半数の自治体に消滅の恐れがあると指摘されるなか、長久手市は何が違うのか。日経電子版は創刊5周年企画として、地方創生の解を探ろうと長久手市を取材した。そこでは地方自治の常識を覆すような取り組みが繰り広げられていた。


■害虫を駆除するな

 異変が起きたのは、昨年末のことだった。

 長久手市の一角にある雑木林に、「樹木の害虫」と言われるカイガラムシが大量発生した。体長1ミリほどの小さな虫は隣接する新興住宅地にも広がり、外壁に黒い米粒のように張り付いていった。

 「早く駆除してくれ」。市の産業緑地課に苦情の電話が殺到し、職員が殺虫剤散布に乗り出そうとした時のことだった。

 「ちょっと待て。対処法を住民と話し合え」

 市長の吉田一平(68)は、そう言って制止した。担当者はいきり立つ住民と市長の板挟みにあう。そうした中、専門家による調査が始まった。

吉田一平・長久手市長

 事態は深刻だった。4年ほど前、雑木林で樹木が朽ちる「ナラ枯れ」が発生し、殺虫剤がまかれた。それがカイガラムシの天敵であるコバエを死滅させ、生態系が崩れて大量発生につながった可能性が高い。かつての生態系を取り戻さない限り、根本的に解決しない。

 専門家は、最後にこう指摘した。「どうしても来年、カイガラムシを発生させたくないなら、雑木林をすべて切り倒すしかない」。それを聞いて吉田は覚悟を決める。「これは激しい議論になるな」

 新築の住宅を買ったばかりの住民が、緑豊かな林をハゲ山にすることに、同意するはずがない。だが、カイガラムシは駆除したい。その問題の原因を追っていくと、宅地開発が自然環境に影響を与えた事実に直面する。

 だが、こうした難題を、吉田はあえて住民と役人の間に放り込み、自分たちで解決策を考えさせる。

■ケンカしながら、落とし所を見つける

 「この40~50年で、住民は批評家になってしまった。自分は名古屋に“出稼ぎ”に行って、面倒臭いことは役所に丸投げする」(吉田)

 1965年に7500人だった人口は5万人に膨れ上がり、多くが市外に勤務する。その間に役所の職員も40人から400人へと急増した。

 役人も、地域のことに正面から向き合わなくなった。地方再生という名のもとに、中央政府はカネをばらまいて解決を図ろうとする。すると、単年度主義の役所は、あわてて予算の消化に走る。勢い、コンサルタントに任せるため、全国で同じような施策が打たれ、箱モノばかりが増殖していく。

 「この繰り返しが、地方の力を削いでしまった」。だからこそ、地域が自分たちで解決への道を探らなければならない。

 長久手市は、すでに「住みやすい町」の各種ランキング調査でトップに立っている。今年2月、日本経済新聞の「強いまち」調査で、「子育てをしやすいまち」の全国1位を獲得。また、東洋経済の「住みよさランキング」では、快適度が3年連続で全国1位に輝いている。だが、吉田は浮かれることなく、その「負の面」も読み解く。現代人にとって「快適」とは、他人との関わりがないことを意味する。「要するに、住民につながりがないとも読める」。だから、「わずらわしさ」を地域に持ち込み、住民を議論の渦に巻き込む。

 「遠回りした方がいい。ケンカしながら、時間をかけて落とし所を見つけていく」。そして振り返れば、そこに地域再生の物語が生まれているという。
 市の職員にも、遠回りの道を求めている。「うまくやるな。できれば、失敗しろ」と繰り返す。

 これまで「有能な役人」とは、解決策を提示して市民を納得させ、短期間で成果に結びつける人材を指した。だが、長久手では、役人はできるだけ解決策を打ち出さない。「何をやるか、政策はすべて市民に考えてもらう」

 吉田は率先して声を拾い集める。市役所の入り口横に、粗大ゴミだった机と椅子を置き、公務がない時はそこに座って市民の声を聞く。


粗大ゴミを拾い集めて、市役所の玄関脇に作った「市長室」

 毎朝、2時間以上かけて歩いて出勤し、喫茶店にも立ち寄る。当初は文句ばかり言われたが、今では打ち解け、地域の話題で盛り上がる。その光景を見ながら、店長の大原由恵(49)はこうつぶやいた。「人口が増えて、町が変わっていくから、お年寄りはさびしいのよ」

■市役所を分割する

 仕事を離れた高齢者や失業者に、地域で役割を担ってもらう――。4年前に市長に就任すると、前代未聞の部署を立ち上げている。

 「たつせがある課」。面目や立場がないことを意味する「立つ瀬がない」をもじった造語だ。最初の取り組みが、「地域共生ステーション」の設置だった。6つの小学校区に住民の活動拠点を作る。住民がそこで話し合って政策を決め、予算を付けていくという。それは、市役所機能の分割とも言える。

 「平成の大合併で、吸収された小さい町や村は白けてしまった」。人口5万人の長久手市は市政としては小規模だが、さらに細分化して権限を落とし込もうとしている。

 これまで地域活動にあまり参加しなかった20~40代の現役世代も巻き込む。公募だけでは有能な若者が集まらないため、市役所の若手職員が知人に声をかけて、参加者を引っ張ってきた。50人近いメンバーが午後7時に集まり、「まちづくり」について夜更けまで議論している。

 飲み会ばかりやっていると批判する人もいるが、吉田は「こうしたつながりをムダだとして切り捨ててきたことが、地域社会の衰退を招いた」という。短期的な成果ばかりを求める「会社の論理」が幅を効かせて、地方が力を失ったと見ている。

■「高度成長」の乱用

 「時間に追われる国」と「時間に追われない国」。それぞれの特徴を書き込んだ表を作っている。「時間に追われる国」とは、企業や軍隊、病院などを指す。目的への最短距離を走ろうと、能力価値を重視して、数値に追われる。「悪いこと」を切り捨てると良いものになると考える。

 一方、「時間に追われない国」とは子供や高齢者、地域社会を指す。雑木林のようにいろいろな人が暮らし、解決や完成とはほど遠い。感性で物事を見る。そして、いいことと悪いことは切り離せないと思っている。

 だが、高度成長の成功体験を持つ世代が、会社の論理を家庭や地域社会に持ち込んでしまった。幼児から英語や楽器を教え込み、小学校に上がれば「中学受験」、その先は就職活動と、子供を次の準備に駆り立てる。リタイア後に地域活動に参加しても、「規律」や「結果責任」を求めてしまう。

 「介護の現場では、1時間に10人を風呂に入れる介護士が優秀だとされ、1人しか入れられない人は出来が悪いと罵倒される。でも、おじいちゃんから見れば、ゆっくり1時間も風呂に入れてくれる人の方がありがたい」

 そんな非効率をよしとすれば、介護の現場が回らない…。「時間に追われる国」の人は、そう反論するに違いない。だが、吉田は市長になる以前に、30年をかけて、この難問に1つの解を導き出している。

 1946年、長久手に生まれた吉田は、商業高校を卒業すると、名古屋市の鉄鋼商社に就職する。猛烈な営業で実績を上げていくが、ハードワークがたたって、11年目に椎間板ヘルニアを患い、10カ月の休職を余儀なくされた。

 「オレが会社を背負っている。これ以上、休んではいられない」。痛む体を押して出社すると、職場は何事もなかったかのように回っていた。

 その後、徐々に地元の消防団にのめり込んでいく。燃え盛る建物に飛び込み、消火すると、住民から「ありがとう」と感謝される。一方、会社では数字のことばかり聞かされた。79年、消防団の分団長に推されたことを機に、辞表を書く。

■「何もしない幼稚園」

 地元にどっぷり浸かると、見慣れた風景が急速に失われていく現実を目の当たりにする。雑木林は、宅地造成のために消えていった。

 「これ以上、森林伐採は止めてもらえないか」。そう掛け合ったものの、何もせず放置するわけにはいかない。消防団の仲間に相談すると、「幼稚園が少ない」とこぼす。視察してみると、子供たちが制服を着せられ、体操や音楽、発表会と時間を区切られてせわしく施設内を行き来している姿があった。

 「これでは、会社と同じじゃないか」

 自分の子供時代は、まったく違っていた。兄4人が相次いで亡くなったため、母親は「勉強しなくていい。毎日、遊びまわって、楽しくすごしてほしい」と願った。だから、日が沈むまで丘を駆け巡り、林の中を探検し、自然とともに育った。

 「生きていることが、こんなに楽しいのか。子供にそう感じさせることが、大人の役割ではないか」。そう考える吉田は、「何もしない幼稚園」を作る。

 81年、雑木林の中に設立した「愛知たいよう幼稚園」。発表会や学芸会といったイベントがなく、言葉や音楽を教えることもしない。ただ、一日中、屋外で遊びまわる。

 遊具も用意していない。子供は自然の中で、遊びを考え出していく。クラスは年少から年長まで、3学年を混在させて作った。子供たちは教えられる側から、教える立場へと成長していく。違う学年がいると、足手まといになるというのは、違う人を排除する会社の論理だという。

■自然の力で子供を守る

 校舎は木造で、冷暖房は設置していない。冬は突き刺すような寒さに襲われ、年少の幼児が泣き出す。すると、年上の子供たちが雑木林に走って、薪を拾い、火を焚いて温まる。

 そうして育った子は、驚くほど怪我が少ないという。自然と向き合い、危険を察知する能力が身についている。事故を回避する知恵や約束事を、みんなで話し合う。明文化しなくても、自然と子供たちの間に広まり、世代を超えて伝えられていく。

 もう1つ、「子供を守る仕掛け」が施されていた。

 幼稚園の隣に古民家を残した。すると、近所の高齢者が集まってくる。そして、子供たちと触れ合い、監視役を果たしてくれる。ところが、年々、お年寄りの体力が落ちていき、古民家に集まることが難しくなっていった。

 吉田は老人ホームの設立を決意する。

 86年、社会福祉法人「愛知たいようの杜」を設立し、広大な雑木林の中に特別養護老人ホームとショートステイ施設を立ち上げた。ここでも「常識」の逆を行く。「施設はわざと雑で汚く作ろうと思った」

 ある老人ホームを見学した時のことだ。巨大な4階建ての鉄筋コンクリートの建物の中にエレベーターや蛍光灯、スチールデスクが整然と並び、受付で制服を来た女性が出迎える。だが、老人はもんぺをはいて、よたよたと廊下を歩いている。あまりにも不自然な光景だった。

 この光景を反面教師にした吉田は雑木林の中に、天井が低く、木目がむき出しの建物を作った。隠れる場所ができるように、廊下は迷路のように曲がりくねっている。

■「時間に追われない国」を作る

 高齢者はスタッフに「すいませんね」「ありがとう」と言い続けている。だが、本心ではないことを知った。明日も面倒を見てもらうために仕方なく言っている。「立つ瀬がない」。そう痛感した吉田は施設内に釜戸を作った。若いスタッフはうまく使えず、立ち往生する。高齢者が活躍すると、今度はスタッフが感謝の言葉を口にすることになる。

 役割が生まれ、表情に明るさが戻った瞬間だった。

 その敷地内に、巨大な「もりのようちえん」を併設した。古民家があり、高齢者が子供たちを見守っている。ケンカの仲裁は、若い先生よりも高齢者の方が長けている。

 93年に長久手市に嫁いできた横倉裕子は、義母をショートステイ施設に送り、息子をもりのようちえんに通わせた。祖母が施設にくると、先生が子供に声をかける。「おばあちゃんが、さびしがってるよ」。すると孫が施設に飛んでいく。老人ホームと幼稚園は行き来が自由で、雨が降ると子供たちが施設に入って時間を過ごす。

 施設内の古民家では、母親たちがボランティアで味噌汁を作る姿があった。露天風呂やビールサーバーを備えているため、休日には父親が集まって、掃除をした後で飲み会を開いている。

 「ゴジカラ(5時から)村」。そう名付けられている。サラリーマンも、終業後(午後5時以降)は自由の身になる。この施設内は「時間に追われない国」として、人々が支え合って機能している。

 ゴジカラ村には看護福祉の専門学校も設置した。そして、老人ホームの食堂を居酒屋として解放し、学生や老人が酒とつまみで盛り上がる。

 施設の開いている部屋に、不登校の若者を「居候」として住み込ませた。すると、老人が声をかけ、叱ったり諭したりする。世代が交わることで役割が生まれてくる。

■組織を大きくしない

 だが、成功しても、各施設の規模拡大には走らない。背景には失敗経験がある。「老人ホームの職員が数十人に増えた時、分業制になり、効率を求める組織になってしまった」(吉田)

 老人がナースコールを押したが、対応してくれない。やっと見つけたスタッフに、勇気を振り絞って「トイレに連れて行ってくれませんか」と声をかけると、職員は立ち止まりもせずにこう言い放った。「オムツをしているんだから、その中でしてください」

 だから、吉田は市内のあちこちに小さい施設を作っていく。2002年、市内の中心街に「ぼちぼち長屋」という共同住宅を設置した。1階は要介護の老人が住み、2階にはOL4人と子供がいる家族が住む。OLの家賃は6万円だが、「老人と接する」という条件で、半額を返納している。

 様々な仕掛けを作って、世代を超えた交流を生み出すことに取り組んでいた吉田にとって、転機となったのが3.11だった。効率を求めた原子力発電所が深刻な被害を撒き散らし、既存の秩序やシステムが揺らいだ。「時間に追われる世界」が幅を効かせる時代は、終わりを告げようとしている。

 その直後、吉田は首長選挙に出馬する決意を固めた。ゴジカラ村の子供たちは、「いっぺいさんが逃げちゃう」と泣き叫んだ。

 「そうじゃない。ここでやっていることを、町全体に広げていくんだよ」

 市内には、すでに吉田の取り組みが知れ渡っている。そして選挙に圧勝すると、こう宣言した。

 「日本一の福祉の町にする」

 どこの首長でも語りそうな平凡な言葉に聞こえるが、真意はまったく違っていた。福祉施設や介護予算を膨張させるつもりはない。町全体が、日常生活の中で子供や老人を支える地域に育て上げていく。

 「認知症の老人が町を徘徊したら、市民が気付いて、対処するような町にしたい」。これまで、住民は逆の方向に走ってきた。隣人との壁を高くして、面倒なことは役所任せ。高度成長時代、快適な暮らしとは「家付き、カー(車)付き、ババ抜き」と言われた。他人と接しない生活を追い求めて。

■「自治の力」を養成する

 だが、今の市民に聞けば、「快適な暮らし」の定義が変わりつつあることに気づく。

 若者を集めたワークショップで、提案された5つの企画はすべて「住民のつながり」を作り出す施策だった。また、2年前から市民による「幸せのモノサシづくり」を続けているが、「やるべきこと」として提案されたのは、知らない住民とつながるための「あいさつリーダーの育成」だ。

 だが、具体的な成果が見えにくい取り組みが多く、市議会からは「時間がかかりすぎる」「何も決まらない」と非難の声も上がっているのも事実だ。

 それでも、吉田は持論を譲らない。

 「地方自治は民主主義の学校と言われるが、市民に力がないと成り立たない」。だから、わずらわしい課題を住民に投げかけ、議論を起こし、時間をかけて考えながら合意を作り上げていく。その繰り返しが「自治の力」を高める。市役所は、そんな「場づくり」に徹する。

政策は住民と一緒に考える(市政まなび舎)

■「町全体を特養にする」

 そこには1つの原体験がある。

 30年以上前のこと。長久手に、陶磁資料館を誘致する計画が持ち上がった。地域の代表が火鉢を囲んで集まったが、世間話ばかりして、結論がでない。そうして半年が経った。最後に、おばあさんが意見を求められた。

 「そうね、まだ早いんではないかしら」。すると、誘致の話はしりすぼみになっていった。サラリーマンだった吉田は、呆気にとられた。「せっかくのチャンスを逃すなんて、田舎者はバカなんじゃないか」

 だが、今になって振り返ると、あの結論が正しかったと痛感する。「資料館の誘致なんて、30年が過ぎてみると、どうでもいいことだった。会議の場では発言しなくても、みんな地域に持ち帰って、井戸端会議でコンセンサスをとっていた」。日本の地域社会に根ざした合意形成メカニズムの深さを思い知らされた。

 だから、吉田はマニュフェストを嫌う。細かい政策は打ち出さず、フラッグ(目標)だけを謳う。しかも3つしかない。「役割と居場所があるまち」「助けが必要な人は全力で守る」「ふるさとの風景を子供たちに」

 住民が外に出て交錯すれば、自ずとやるべきことが浮かび上がり、目標に近づいていく。そんな信念がある。

 その思いを強くした出来事があった。

 障害者を受け入れている大阪市立大空小学校を、教育長とともに視察した。授業中に突然泣き出したり、徘徊する子供もいる。だが、仲間が対応して助ける。その仕組みはたった1つの約束だった。「自分がされていやなことは、人にしない、言わない」

 友だちを殴る子は、その裏で誰かに殴られている。そうした負の連鎖を断ち切る仕掛けは、1つのシンプルな決まりごとだった。細かい規則やルールなど決めていない。それぞれが考える。そして荒れていた学校が立ち直った。

 吉田は教育長を振り向いて、こうつぶやいた。

 「やるべきことは、マニュアルに書けないってことだよ」

 彼の目指す場所は、幼稚園を作った時からブレることがない。「町全体を特養にする」とも表現する。それは同時に幼稚園でもある。つながり、思いやり、支え合う地域を作り上げていく。「自治」の力を失いかけた日本の地方自治体にとって、「地方創生」に向けた根源的な取り組みとも言える。「日本一、住みやすい町」は、より高い目標に向かって、遠回りをしながら歩き続けている。

=敬称略
(編集委員 金田信一郎)

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